ferne blog

セカイ系同人誌『ferne』主宰によるブログ

2020年代のセカイ系――『シン・エヴァンゲリオン』における「青空」の意味

碇シンジの見つめる水平線

 前島賢セカイ系とは何か』(星海社文庫、2014年[原著2010年])は、「セカイ系」の最もプリミティブな定義として「ポスト・エヴァンゲリオン」の作品群というものを提示していた。「〈きみ〉と〈ぼく〉」といった恋愛要素はその前提の上に付け足されたもので、背後には主人公のひとり語りが激しいという特徴がある、と。1995年にテレビ放送された『新世紀エヴァンゲリオン』はまさしく主人公・碇シンジの内省的な独白によって特徴づけられる作品で、まるまる全編が彼のモノローグで埋め尽くされる、といったエピソードもある。主人公とカップリングになる特定の人物は存在せず(綾波レイとも惣流・アスカ・ラングレーとも葛城ミサトとも、あるいは渚カヲルとも言いがたい)、使徒の襲来という巨大な事態を前にしてパイロットであるシンジの自意識が空転し続ける、そうした構造を持っていた作品だった。 

 制作スケジュールの遅れも原因と囁かれる、絵コンテや台本のト書きをそのまま画面上に映し出すという楽屋落ち的手法を用いてテレビシリーズは最終回を迎えた。その後、完結編として公開された劇場版『Air/まごころを、君に』(以下『旧劇場版』)では、人類すべての魂と身体の境界をなくす「人類補完計画」の詳細が描かれる。計画のコアたるエヴァンゲリオン初号機に取り込まれたシンジが他者のいる世界を望んだことで、最終的に計画は失敗に終わった。人類どころか、どうやらすべての生物が死に絶えたことを示唆する真っ赤な海の波打ち際で、アスカが自らの首を締めるシンジに対して「気持ち悪い」と吐き捨てるというのがラストシーンである。

 『旧劇場版』ではシンジの精神世界を描く際に「観客席を画面に映す」という手法が用いられていたこともあり、作品のファンに対する「アニメという虚構に耽溺するな、現実へ帰れ」というメッセージが込められていたとする見方が一般的だ。シンジ以外に唯一残った「他者」の象徴たるアスカは彼のことを拒絶するが、そうした痛みを噛み締めていくことこそ「現実」を生きることなのだ、と。しかし、件のラストシーンはこうしたメタメッセージを読み込まない限りは端的に沈鬱なものであり、平たく言えば後味が悪い。海を染めた赤色は血肉の色、人を縛る「この身体」からの逃れ難さにも通じ、たどり着いた「この現実」の外側にはどこにも行けない、という印象が否応にも強調される。

 2007年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』から始まり、2009年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、2012年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』、そして2021年『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にて幕を降ろした『新劇場版』シリーズは、結果から言えば『旧劇場版』の結末と正反対の余韻を残すものとなった。しかしそれは巷で言われているような、自意識の悩みに囚われなくなったシンジが「成長」し、「大人」になって勤め人となり結婚し……などといった次元でしか捉えられないものなのだろうか。庵野秀明監督の地元である山口県宇部市街の実写映像が最後に映し出されることから、最終パートを切り取って(『旧劇場版』とはまた異なるニュアンスで)「現実に帰れ」と促していると読む気持ちもわからなくはないが、あの最終パートはむしろオマケのようなもので、本来はその手前、ひとりぽつんと砂浜に座り青い水平線を見つめる、あのシンジの姿こそが重要なのではないか。

 『シン・エヴァ』終盤のシンジはまるで悟りを開いたようだと、こんな碇シンジ碇シンジではないと(特に最終パートに否定的な論者を中心に)言われる。しかし、それまでシリーズを通して多弁なモノローグを弄してきたシンジが、その舌禍……自意識のオーバーフローによって惨事を引き起こしてきたことを省みた結果として沈黙を選んだのだと考えれば、むしろこの描かれ方には納得感しかない。ここで時代背景に連想をめぐらせれば、『エヴァ』旧シリーズが展開した1990年代末期は家庭用PCとインターネット、携帯電話がようやく普及し始めた時代だ。サイバースペースに書き込まれた「ひとりごと」は虚空に消え、秘密の通路をたどって「どこか」へ届くかもしれないということが、ある種の希望として捉えられていた時代だった*1。シンジのモノローグの過剰さがそうした当時の情報環境と軌を一にしたものだと仮定するならば、『新劇場版』が始まった2007年はiPhoneが発表された年だ(日本では翌2008年に発売)。2006年にはTwitterアメリカでサービス開始、2008年には日本に上陸している。スマートフォンソーシャルメディアの時代において、心理的な意味(「つながり」それ自体の過剰)においても物理的な意味(タッチパネルインターフェースの普及による、即時的で情動的なコミュニケーションの全面化)においても「距離」の感覚は失われ、インターネット上にもはや純然たる「ひとりごと」の居場所はない。『エヴァ』という、2000年代〜2010年代という時代を規定したシリーズから主要キャラクターたちが退場していくのを見送り、ひとり水平線を見つめるシンジの姿。それは2020年代のインターネット社会において求められる、「沈黙」という倫理を体現しているようにも思えるのだ。

「沈黙」という倫理

 青は古来自然界には稀少な色で、遠い憧れの象徴として用いられてきた色である。その最たるものがドイツ・ロマン派の文学作品や絵画における青だろう。ノヴァーリスの同名小説における「青い花」やC・D・フリードリヒの絵画に見られる青空は、無限に続く彼方を予感させると同時に、それに対峙した自らの有限性を仄めかしもする。フリードリヒの絵画にはこちら側に背を向けた人物像が、雄大な自然を全面に描いたキャンバスの大きさに比してとても小さく描かれるが、こうした例に典型的な「雄大な自然に対する、矮小な人間」という構図は、〈反省〉という独特の理念を育てることになった。複製芸術時代における「アウラ」の喪失を指摘した思想家、ヴァルター・ベンヤミンによれば、〈反省〉は「ある対象を認識する私、を認識する私、を認識する……」という形で、主体の位置を無限に遡行させる性質を持つ。初期ドイツ・ロマン派の芸術には、そうした〈反省〉があらかじめ織り込まれているのだという*2ベンヤミンが分析の対象としたのはもっぱら文学作品であるが、ここで抽出された〈反省〉という理念をフリードリヒをはじめとする絵画作品の鑑賞体験にも重ねることができる。たとえば、青空を向こうに回してこちら側に背を向けた人物を、作者/鑑賞者の投影先として解釈するとき、それは雄大な自然を前にして打ちひしがれる様を描いた、素朴な心象スケッチにすぎない。しかしそうした絵画を、「見る」という経験も織り込んだある種のインスタレーションとして捉えるならば、「雄大な自然を前にした人間、の絵を見ている私(も誰かにまた見られていて……)」と、鑑賞者に〈反省〉を起動させる性質を持つと言える。青は無限の「遠さ」を表す色であると同時に、鏡のように「それを見る私」を反射する色でもあるのだ。

 青空とシンジの組み合わせは、『シン・エヴァ』で都合2回登場する。1回はもちろん最終パート直前、すべてのキャラクターを送り出した後のシーンだが、もう1回は前半、「第3村」の外れにある廃墟で、シンジが何をするでもなく膝を抱え続けるパートだ。おそらくこの時のシンジは、眼前に広がる空の青に思いを馳せるほど心が回復していない。目に光は入っていたとしても、心の中に何のイメージも結んでいないのだが、しかし観客は彼の背後からシンジ・廃墟と化した旧ネルフ支部・そして青空をひとつのイメージとして視界に収めている。廃墟もまた背を向けた人物像と並んで、フリードリヒの絵画に頻出するモチーフだが、ドイツ・ロマン派の海外における廃墟、すなわち風化して瓦礫になった建造物のモチーフとは、断片的な生を生きるしかない近代人の投影であるとする解釈もある(ノヴァーリスをはじめとしたドイツ・ロマン派の詩人たちは、それゆえに断章形式を好んだという)*3

 周知の通り当該パートは、シンジが渚カヲルの死とニアサードインパクトの発動を経て、ばらばらになった心をつなぎ合わせる過程として機能しており、観客はそんなシンジの後ろ姿を、廃墟の一部として眺めることになる。ここでのシンジは、テレビシリーズで象徴的だった「イヤホンで外界を遮断する」という、後ろ向きな行為すら行っていない。一切のアクションを起こさないその姿は、さながら廃墟に転がった瓦礫と同じ、物言わぬ「モノ」だ。観客の感情移入をことごとく跳ね返すこの長いシークエンスを通して、観客とシンジがすでに決定的に分かたれた存在であることが示されるのである。「こんなのシンジじゃない」という非難は、シンジを自身の投影として捉えていた旧作ファンの声だったわけだが、『シン・エヴァ』という作品はそこに映し出されているキャラクターに素朴な感情移入をするのではない――ひとつの風景として「それを見る私」を織り込んだ――〈反省〉を組み込んだ鑑賞を観客に促している。そうしたプロセスの中で、一度ばらばらになったシンジがひとりの人間としての全体性を回復したとき、旧シリーズに思い入れのある鑑賞者から見て「かつての(感情移入の対象だった)シンジ」ではない別個の存在がそこにいるように思えるのは、至極当然なことだと言えるだろう。『シン・エヴァ』という作品はまさに鏡であり、かつての『エヴァ』から変化があったとすれば、それは鑑賞者自身に起きた変化なのである。

 思えばテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』のオープニング映像……あの「残酷な天使のテーゼ」とともに流れる映像は、<蒼い風がいま 胸のドアを叩いても>という歌詞に乗せて、半透明なシンジの横顔と青空がコラージュされた絵から始まるのだった。庵野秀明による、カットアップを多用した、サンプリングに満ちた、アニメーションを線画やセル画や絵コンテや台本のト書きといったマテリアルにまで解体していくような手つきは、すでにこのオープニング映像に表れており、正しく彼が「モノ」の作家であることを示している。そこに強固な精神分析的「親と子」の物語が串刺しにされたことで、旧シリーズが求心力を持ち得たのも確かだが、しかしあくまで「描かれたモノ」であるキャラクターたちにとっては、それは一種の不幸でしかなかった。テレビシリーズ放送直後のインタビューで庵野は「人間」、もっと言えば植物を含む生物の一切に興味がなく、それゆえに複数のキャラクターからなる人間ドラマも、すべて自分自身を投影したものにならざるを得ないという旨の発言をしている*4。本来持たなくても良かったはずの「自意識」なるものが、それ自体は「モノ」でしかあり得ないキャラクターたちに無理やり流し込まれた帰結として、旧シリーズは禍々しいまでの自壊を遂げるしかなかったのではないか。

 『シン・エヴァ』という作品は長年の商業展開や二次創作、ファンたちによる語りや度重なる本編のプロット変更によってアイデンティティをずたずたに引き裂かれたキャラクターたちが、「自意識」の捏造といったものに頼ることなく、「モノ」としてその一貫性を回復していくプロセスである(たとえばモーションキャプチャを用いた生身の俳優の演技のトレースやミニチュアセットを「建設」してカメラアングルを探るといった手法の導入も、本質的に記号の戯れとしての側面を持つアニメーション表現に、「モノ」の次元を挿入しようとした形跡と見なすことができる)。「モノ」としての領分に留まるからこそ、回復したシンジは沈黙を守るのだし、その静けさはコロナ・パンデミックによるロックダウンが束の間もたらした、一切の人間が消失し、建物などの人工物の存在感だけが前にせり出した無人の街のイメージにどこか重なって見える。沈黙とは、「距離」が狂った時代における舌禍を押し止める、「モノ」の側から提示された倫理なのだ。

 すべての役割を終えたシンジは、モノクロの線画に解体されそうになる。そこに真希波・マリ・イラストリアスが迎えに来て、画面には色が戻るのだが、この描写が表しているのは断片から一度連続性を回復した「モノ」が「人」になるには、誰かに「見つけてもらう」ことが不可欠だということである(マリが8+9+10+11+12号機という「継ぎ接ぎ」の機体=モノに対して、あたかも人間相手のように感謝を告げるのは、ここで示された構図を反復している)。シンジを迎えに来るのがマリなのは、レイやアスカ、ミサトと結ばれる「ルート」が否定されたといったことではなく、彼女が単に旧シリーズにはそもそも存在していなかった=強い意味性を持たないキャラであるという、それだけの理由にすぎない。極端なことを言えば、マリは「誰でもいい」存在として、シンジを迎えに来るポジションに収まっているだけなのである

 なお、ここで『破』についても振り返っておきたい。「熱血」化したと、『シン・エヴァ』とはまた違った意味で「こんなのシンジじゃない」と当時言われた『破』のシンジは、ジオフロントに侵入した最強の使徒との激戦を経て「来い! 綾波!」と絶叫し、象徴的ヒロインとしてのレイを救い出す。世界の崩壊なんか知ったこっちゃない、ただ〈きみ〉が必要なんだ、と。「『エヴァ』っぽさ」からモノローグの過剰という要素が抜け落ちて生まれた、「〈きみ〉と〈ぼく〉の関係性を中心とした小さな問題が、〈世界の終わり〉といった抽象的で大きな問題に直結する」というセカイ系通俗的定義を忠実になぞるように、〈ぼく〉が〈きみ〉と〈世界の終わり〉を天秤にかける展開になっている。しかし、このシンジの行動は知っての通り、作中世界を崩壊寸前まで至らせる結果となった(ニアサードインパクト)。自意識の悩みを捨て、行動を起こしたはいいものの、そこにはモノローグとは別種の多弁さがあり、やはり沈黙するには至っていない(天空から飛来しシンジの乗るエヴァ初号機を貫いた槍は、「お前ちょっと黙っとけ」というツッコミに見えなくもない)。セカイ系を「〈きみ〉か〈世界の終わり〉か」という究極の二択に対する「決断」を描く作品として捉える向きが一部であるが(たとえば、2019年の新海誠監督作『天気の子』は、こうした意味で「直球のセカイ系」だと一部のファンの間で盛り上がった)、筆者としては『旧劇場版』(1997年)~『破』(2009年)~『シン・エヴァ』(2021年)という流れの中で、その方向性は一度棄却ないし途絶したものとして捉えることにしたい。

過去と未来をコラージュする

 青空を前にして沈黙すること。断片=モノとしての自分自身を見つめ、誰かに見つけられるまでの間をただ「待つ」ということ。これが「2020年代セカイ系」の、原風景的なイメージである。自意識の饒舌から、物言わぬ沈黙へ。「エヴァっぽい」作品の系譜として語られてきた「セカイ系」を、「シン・エヴァっぽい」作品の系譜として語り直すことで、この20年を新たに描き直すことができるのではないかということだ。

 2022年末、訃報が伝えられた建築家の磯崎新は、「未来都市は廃墟である」というテーゼをもって自らの建築論を語った。14歳で終戦を迎えた彼の中には、一面の瓦礫と化した都市の風景と、そこで呆然と見上げた青空が建築家として仕事を始めてからも心に焼き付いていたという。設計図を描くために真っ白な画面に向かっては、(何を設計したとしても)いずれは廃墟になってしまうという想念に駆られる……そんな磯崎が至った境地が、建築とはそもそも廃墟を生み出す営みなのだ、という転倒だった。

「廃墟は文字通りに破壊された断片である。多くの欠落部を生じている。その欠落した箇所から、かつて存在していたはずの完全な状態を想像する誘惑にみちびかれる。〔…〕この時間軸をそっくり未来へ向けて逆転してみるとすれば、それは過去を想像のものとして描いたように、未来を描くことになるではないか。〔…〕未来は過去の廃墟のようになる。すくなくとも、いまみる世界の状況は廃墟として、そのまま未来にまで残存するだろう。それに未来に生まれるべき構造体が複合する。時間が反転する。あるいは撹乱する。スケールをディストーションする。不透明で密実な部分に、透明に構成的な要素が結合する。部分的に未来であり、部分的に過去である。」*5

 人は瓦礫を拾い集めることによって、廃墟から新たなイメージを想像/創造することができる。そこでは過去から未来へという直線的なタイムスケールが解体され、時間の断片がモザイク状にイメージを形作るのだ。

 「2020年代セカイ系」の向かうべきビジョンも、ここに示されているように思う。「セカイ系」と呼ばれた作品の大半は、『エヴァ』のヒットにより粗製乱造された、「エヴァっぽい」だけの泡沫的「ガラクタ」(cf.『セカイ系とは何か』)だった。いまになって「セカイ系」を問うのは、その起源たる『エヴァ』が『シン・エヴァ』に至って「青空」を取り戻すまでの物語として完結した一方で、その間に生み出されてきた無数の「ガラクタ」たちが、いまだ来るべきコラージュの素材として打ち捨てられたままになっているからだ。今後「2020年代セカイ系」を語るにあたっては、最近の作品だけでなく過去の作品についても言及していくことになるだろうが、あくまで時間性・歴史性を剥奪された断片としてであり、決してノスタルジー的な動機からではない。過去を復元するためにではなく、未来をコラージュするために、その古名たちは呼び出されるのである。

*1:たとえば、初期インターネットのアンダーグラウンド感とホラー要素を掛け合わせた作風でカルト的な人気を誇るアニメ作品『serial experiments lain』(1998年)がSoundCloudやBandcampといったインターネット上の音楽配信プラットフォームを中心に作品を発表するインディペンデントな海外ミュージシャンに(音声と視覚イメージの双方で)好んで引用されている事実は、ここで述べたような特有の感覚が確かに実在することの傍証となるだろう。具体的な作品例として、サンパウロを拠点に活動するsonhos tomam contaの『wired』(2021年)や、シドニーを拠点に2021年まで活動していたSewerslvtの『Cyberia Lyr1+2=3』(2020年)を挙げておく。

*2:ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、2001年)より。なお表題論文はベンヤミンが20代で著した学位論文だが、そこで彼が積極的に評価しているのはあくまで「初期」ドイツ・ロマン派の芸術理念であることを留意しておきたい。ユダヤ系ドイツ人であるベンヤミンは晩年、当然ながらナチスによるファシズム体制を批判した。論文「複製芸術時代の芸術作品」でベンヤミンは、それまでの(唯一的、複製不可能な)芸術作品がその「アウラ」をもって体現していた「礼拝的(宗教的)価値」が複製技術によって失われた結果、その欠如を埋めるべく「政治の美学化(民族主義を高揚させることによる動員)」が起こり、そのための道具として写真や映画が用いられるようになったと指摘している。ロマン主義民族主義的なものとの結託によってファシズムへの道を開いたとする歴史の見方は依然根強い。2020年代はもちろんナチス以後の時代であり、デジタル化の進展によってベンヤミンの存命時よりも遥かに複製イメージの氾濫する時代でもある。しかしデジタル時代における複製イメージの氾濫とは同時に、パーソナルデバイスとそこにインストールされたアプリケーションを用いた無数のユーザーの手による加工を被ったものであり(複製的でありながら極めて個人的なものでもありうる)、その流通はマスメディア的ではなくネットワーク的になされる(複製イメージの流通を直ちに中央集権的な「動員」のアナロジーと結びつけることはできない)。そもそも当のベンヤミンによって「初期」ドイツ・ロマン派は大文字のドイツ・ロマン派から独立したものとして扱われていたわけだが、デジタル/ネットワーク時代における「青空」表象を捉えるにあたっては、ドイツ・ロマン派の芸術理論を「ファシズムを準備した」という歴史認識から切り離して活用しても良いのではないかと筆者は考えている。

*3:谷川渥編『廃墟大全』(中公文庫、2003年[原著1997年])所収、今泉文子「『廃墟』とロマン主義 断片が生い育つ――ティーク、ノヴァーリスに見るロマン派の廃墟のモティーフ」より。以下、本文より一部を引用する。「要するにドイツ・ロマン派は、感傷主義者のように廃墟に詠嘆せず、自分たちの存在と作品が、それ自体として廃墟であり、断片であると哲学的・美学的に捉えかえすのである。シュレーゲル(筆者註:雑誌『アテネーウム』の編纂などで初期ドイツ・ロマン派の理念を体系化した思想家・作家)は言う――「古代人の多くの作品は断片になってしまった。近代人の多くの作品は成立と同時に断片である」。とはいえ、それで絶望してニヒリズムに陥るまでにはいたっていない。かれらは、あえてその断片から出発し、断片を生きようとする。」

*4:竹熊健太郎編『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(太田出版、1997年)所収のロングインタビューより。発言を一部引用する。「人間ドラマなんて、そうそうやれるもんじゃないですよ。だって、全然わからない他人を描くってことじゃないですか。その上、その関係までも描かなきゃならない。〔…〕僕は、結局、頭の中で考えてもできないんで、しかたなく自分をドラマにそのまま投影している。だから、なんか人間ドラマっぽい感じがするだけで。」

*5:宮本隆司の写真集『新・建築の黙示録』(平凡社、2003年[原著1988年])に収録のテキスト「廃墟論」より。