ferne blog

セカイ系同人誌『ferne』主宰によるブログ

2020年代のセカイ系――『シン・エヴァンゲリオン』における「青空」の意味

碇シンジの見つめる水平線

 前島賢セカイ系とは何か』(星海社文庫、2014年[原著2010年])は、「セカイ系」の最もプリミティブな定義として「ポスト・エヴァンゲリオン」の作品群というものを提示していた。「〈きみ〉と〈ぼく〉」といった恋愛要素はその前提の上に付け足されたもので、背後には主人公のひとり語りが激しいという特徴がある、と。1995年にテレビ放送された『新世紀エヴァンゲリオン』はまさしく主人公・碇シンジの内省的な独白によって特徴づけられる作品で、まるまる全編が彼のモノローグで埋め尽くされる、といったエピソードもある。主人公とカップリングになる特定の人物は存在せず(綾波レイとも惣流・アスカ・ラングレーとも葛城ミサトとも、あるいは渚カヲルとも言いがたい)、使徒の襲来という巨大な事態を前にしてパイロットであるシンジの自意識が空転し続ける、そうした構造を持っていた作品だった。 

 制作スケジュールの遅れも原因と囁かれる、絵コンテや台本のト書きをそのまま画面上に映し出すという楽屋落ち的手法を用いてテレビシリーズは最終回を迎えた。その後、完結編として公開された劇場版『Air/まごころを、君に』(以下『旧劇場版』)では、人類すべての魂と身体の境界をなくす「人類補完計画」の詳細が描かれる。計画のコアたるエヴァンゲリオン初号機に取り込まれたシンジが他者のいる世界を望んだことで、最終的に計画は失敗に終わった。人類どころか、どうやらすべての生物が死に絶えたことを示唆する真っ赤な海の波打ち際で、アスカが自らの首を締めるシンジに対して「気持ち悪い」と吐き捨てるというのがラストシーンである。

 『旧劇場版』ではシンジの精神世界を描く際に「観客席を画面に映す」という手法が用いられていたこともあり、作品のファンに対する「アニメという虚構に耽溺するな、現実へ帰れ」というメッセージが込められていたとする見方が一般的だ。シンジ以外に唯一残った「他者」の象徴たるアスカは彼のことを拒絶するが、そうした痛みを噛み締めていくことこそ「現実」を生きることなのだ、と。しかし、件のラストシーンはこうしたメタメッセージを読み込まない限りは端的に沈鬱なものであり、平たく言えば後味が悪い。海を染めた赤色は血肉の色、人を縛る「この身体」からの逃れ難さにも通じ、たどり着いた「この現実」の外側にはどこにも行けない、という印象が否応にも強調される。

 2007年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』から始まり、2009年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、2012年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』、そして2021年『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にて幕を降ろした『新劇場版』シリーズは、結果から言えば『旧劇場版』の結末と正反対の余韻を残すものとなった。しかしそれは巷で言われているような、自意識の悩みに囚われなくなったシンジが「成長」し、「大人」になって勤め人となり結婚し……などといった次元でしか捉えられないものなのだろうか。庵野秀明監督の地元である山口県宇部市街の実写映像が最後に映し出されることから、最終パートを切り取って(『旧劇場版』とはまた異なるニュアンスで)「現実に帰れ」と促していると読む気持ちもわからなくはないが、あの最終パートはむしろオマケのようなもので、本来はその手前、ひとりぽつんと砂浜に座り青い水平線を見つめる、あのシンジの姿こそが重要なのではないか。

 『シン・エヴァ』終盤のシンジはまるで悟りを開いたようだと、こんな碇シンジ碇シンジではないと(特に最終パートに否定的な論者を中心に)言われる。しかし、それまでシリーズを通して多弁なモノローグを弄してきたシンジが、その舌禍……自意識のオーバーフローによって惨事を引き起こしてきたことを省みた結果として沈黙を選んだのだと考えれば、むしろこの描かれ方には納得感しかない。ここで時代背景に連想をめぐらせれば、『エヴァ』旧シリーズが展開した1990年代末期は家庭用PCとインターネット、携帯電話がようやく普及し始めた時代だ。サイバースペースに書き込まれた「ひとりごと」は虚空に消え、秘密の通路をたどって「どこか」へ届くかもしれないということが、ある種の希望として捉えられていた時代だった*1。シンジのモノローグの過剰さがそうした当時の情報環境と軌を一にしたものだと仮定するならば、『新劇場版』が始まった2007年はiPhoneが発表された年だ(日本では翌2008年に発売)。2006年にはTwitterアメリカでサービス開始、2008年には日本に上陸している。スマートフォンソーシャルメディアの時代において、心理的な意味(「つながり」それ自体の過剰)においても物理的な意味(タッチパネルインターフェースの普及による、即時的で情動的なコミュニケーションの全面化)においても「距離」の感覚は失われ、インターネット上にもはや純然たる「ひとりごと」の居場所はない。『エヴァ』という、2000年代〜2010年代という時代を規定したシリーズから主要キャラクターたちが退場していくのを見送り、ひとり水平線を見つめるシンジの姿。それは2020年代のインターネット社会において求められる、「沈黙」という倫理を体現しているようにも思えるのだ。

「沈黙」という倫理

 青は古来自然界には稀少な色で、遠い憧れの象徴として用いられてきた色である。その最たるものがドイツ・ロマン派の文学作品や絵画における青だろう。ノヴァーリスの同名小説における「青い花」やC・D・フリードリヒの絵画に見られる青空は、無限に続く彼方を予感させると同時に、それに対峙した自らの有限性を仄めかしもする。フリードリヒの絵画にはこちら側に背を向けた人物像が、雄大な自然を全面に描いたキャンバスの大きさに比してとても小さく描かれるが、こうした例に典型的な「雄大な自然に対する、矮小な人間」という構図は、〈反省〉という独特の理念を育てることになった。複製芸術時代における「アウラ」の喪失を指摘した思想家、ヴァルター・ベンヤミンによれば、〈反省〉は「ある対象を認識する私、を認識する私、を認識する……」という形で、主体の位置を無限に遡行させる性質を持つ。初期ドイツ・ロマン派の芸術には、そうした〈反省〉があらかじめ織り込まれているのだという*2ベンヤミンが分析の対象としたのはもっぱら文学作品であるが、ここで抽出された〈反省〉という理念をフリードリヒをはじめとする絵画作品の鑑賞体験にも重ねることができる。たとえば、青空を向こうに回してこちら側に背を向けた人物を、作者/鑑賞者の投影先として解釈するとき、それは雄大な自然を前にして打ちひしがれる様を描いた、素朴な心象スケッチにすぎない。しかしそうした絵画を、「見る」という経験も織り込んだある種のインスタレーションとして捉えるならば、「雄大な自然を前にした人間、の絵を見ている私(も誰かにまた見られていて……)」と、鑑賞者に〈反省〉を起動させる性質を持つと言える。青は無限の「遠さ」を表す色であると同時に、鏡のように「それを見る私」を反射する色でもあるのだ。

 青空とシンジの組み合わせは、『シン・エヴァ』で都合2回登場する。1回はもちろん最終パート直前、すべてのキャラクターを送り出した後のシーンだが、もう1回は前半、「第3村」の外れにある廃墟で、シンジが何をするでもなく膝を抱え続けるパートだ。おそらくこの時のシンジは、眼前に広がる空の青に思いを馳せるほど心が回復していない。目に光は入っていたとしても、心の中に何のイメージも結んでいないのだが、しかし観客は彼の背後からシンジ・廃墟と化した旧ネルフ支部・そして青空をひとつのイメージとして視界に収めている。廃墟もまた背を向けた人物像と並んで、フリードリヒの絵画に頻出するモチーフだが、ドイツ・ロマン派の海外における廃墟、すなわち風化して瓦礫になった建造物のモチーフとは、断片的な生を生きるしかない近代人の投影であるとする解釈もある(ノヴァーリスをはじめとしたドイツ・ロマン派の詩人たちは、それゆえに断章形式を好んだという)*3

 周知の通り当該パートは、シンジが渚カヲルの死とニアサードインパクトの発動を経て、ばらばらになった心をつなぎ合わせる過程として機能しており、観客はそんなシンジの後ろ姿を、廃墟の一部として眺めることになる。ここでのシンジは、テレビシリーズで象徴的だった「イヤホンで外界を遮断する」という、後ろ向きな行為すら行っていない。一切のアクションを起こさないその姿は、さながら廃墟に転がった瓦礫と同じ、物言わぬ「モノ」だ。観客の感情移入をことごとく跳ね返すこの長いシークエンスを通して、観客とシンジがすでに決定的に分かたれた存在であることが示されるのである。「こんなのシンジじゃない」という非難は、シンジを自身の投影として捉えていた旧作ファンの声だったわけだが、『シン・エヴァ』という作品はそこに映し出されているキャラクターに素朴な感情移入をするのではない――ひとつの風景として「それを見る私」を織り込んだ――〈反省〉を組み込んだ鑑賞を観客に促している。そうしたプロセスの中で、一度ばらばらになったシンジがひとりの人間としての全体性を回復したとき、旧シリーズに思い入れのある鑑賞者から見て「かつての(感情移入の対象だった)シンジ」ではない別個の存在がそこにいるように思えるのは、至極当然なことだと言えるだろう。『シン・エヴァ』という作品はまさに鏡であり、かつての『エヴァ』から変化があったとすれば、それは鑑賞者自身に起きた変化なのである。

 思えばテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』のオープニング映像……あの「残酷な天使のテーゼ」とともに流れる映像は、<蒼い風がいま 胸のドアを叩いても>という歌詞に乗せて、半透明なシンジの横顔と青空がコラージュされた絵から始まるのだった。庵野秀明による、カットアップを多用した、サンプリングに満ちた、アニメーションを線画やセル画や絵コンテや台本のト書きといったマテリアルにまで解体していくような手つきは、すでにこのオープニング映像に表れており、正しく彼が「モノ」の作家であることを示している。そこに強固な精神分析的「親と子」の物語が串刺しにされたことで、旧シリーズが求心力を持ち得たのも確かだが、しかしあくまで「描かれたモノ」であるキャラクターたちにとっては、それは一種の不幸でしかなかった。テレビシリーズ放送直後のインタビューで庵野は「人間」、もっと言えば植物を含む生物の一切に興味がなく、それゆえに複数のキャラクターからなる人間ドラマも、すべて自分自身を投影したものにならざるを得ないという旨の発言をしている*4。本来持たなくても良かったはずの「自意識」なるものが、それ自体は「モノ」でしかあり得ないキャラクターたちに無理やり流し込まれた帰結として、旧シリーズは禍々しいまでの自壊を遂げるしかなかったのではないか。

 『シン・エヴァ』という作品は長年の商業展開や二次創作、ファンたちによる語りや度重なる本編のプロット変更によってアイデンティティをずたずたに引き裂かれたキャラクターたちが、「自意識」の捏造といったものに頼ることなく、「モノ」としてその一貫性を回復していくプロセスである(たとえばモーションキャプチャを用いた生身の俳優の演技のトレースやミニチュアセットを「建設」してカメラアングルを探るといった手法の導入も、本質的に記号の戯れとしての側面を持つアニメーション表現に、「モノ」の次元を挿入しようとした形跡と見なすことができる)。「モノ」としての領分に留まるからこそ、回復したシンジは沈黙を守るのだし、その静けさはコロナ・パンデミックによるロックダウンが束の間もたらした、一切の人間が消失し、建物などの人工物の存在感だけが前にせり出した無人の街のイメージにどこか重なって見える。沈黙とは、「距離」が狂った時代における舌禍を押し止める、「モノ」の側から提示された倫理なのだ。

 すべての役割を終えたシンジは、モノクロの線画に解体されそうになる。そこに真希波・マリ・イラストリアスが迎えに来て、画面には色が戻るのだが、この描写が表しているのは断片から一度連続性を回復した「モノ」が「人」になるには、誰かに「見つけてもらう」ことが不可欠だということである(マリが8+9+10+11+12号機という「継ぎ接ぎ」の機体=モノに対して、あたかも人間相手のように感謝を告げるのは、ここで示された構図を反復している)。シンジを迎えに来るのがマリなのは、レイやアスカ、ミサトと結ばれる「ルート」が否定されたといったことではなく、彼女が単に旧シリーズにはそもそも存在していなかった=強い意味性を持たないキャラであるという、それだけの理由にすぎない。極端なことを言えば、マリは「誰でもいい」存在として、シンジを迎えに来るポジションに収まっているだけなのである

 なお、ここで『破』についても振り返っておきたい。「熱血」化したと、『シン・エヴァ』とはまた違った意味で「こんなのシンジじゃない」と当時言われた『破』のシンジは、ジオフロントに侵入した最強の使徒との激戦を経て「来い! 綾波!」と絶叫し、象徴的ヒロインとしてのレイを救い出す。世界の崩壊なんか知ったこっちゃない、ただ〈きみ〉が必要なんだ、と。「『エヴァ』っぽさ」からモノローグの過剰という要素が抜け落ちて生まれた、「〈きみ〉と〈ぼく〉の関係性を中心とした小さな問題が、〈世界の終わり〉といった抽象的で大きな問題に直結する」というセカイ系通俗的定義を忠実になぞるように、〈ぼく〉が〈きみ〉と〈世界の終わり〉を天秤にかける展開になっている。しかし、このシンジの行動は知っての通り、作中世界を崩壊寸前まで至らせる結果となった(ニアサードインパクト)。自意識の悩みを捨て、行動を起こしたはいいものの、そこにはモノローグとは別種の多弁さがあり、やはり沈黙するには至っていない(天空から飛来しシンジの乗るエヴァ初号機を貫いた槍は、「お前ちょっと黙っとけ」というツッコミに見えなくもない)。セカイ系を「〈きみ〉か〈世界の終わり〉か」という究極の二択に対する「決断」を描く作品として捉える向きが一部であるが(たとえば、2019年の新海誠監督作『天気の子』は、こうした意味で「直球のセカイ系」だと一部のファンの間で盛り上がった)、筆者としては『旧劇場版』(1997年)~『破』(2009年)~『シン・エヴァ』(2021年)という流れの中で、その方向性は一度棄却ないし途絶したものとして捉えることにしたい。

過去と未来をコラージュする

 青空を前にして沈黙すること。断片=モノとしての自分自身を見つめ、誰かに見つけられるまでの間をただ「待つ」ということ。これが「2020年代セカイ系」の、原風景的なイメージである。自意識の饒舌から、物言わぬ沈黙へ。「エヴァっぽい」作品の系譜として語られてきた「セカイ系」を、「シン・エヴァっぽい」作品の系譜として語り直すことで、この20年を新たに描き直すことができるのではないかということだ。

 2022年末、訃報が伝えられた建築家の磯崎新は、「未来都市は廃墟である」というテーゼをもって自らの建築論を語った。14歳で終戦を迎えた彼の中には、一面の瓦礫と化した都市の風景と、そこで呆然と見上げた青空が建築家として仕事を始めてからも心に焼き付いていたという。設計図を描くために真っ白な画面に向かっては、(何を設計したとしても)いずれは廃墟になってしまうという想念に駆られる……そんな磯崎が至った境地が、建築とはそもそも廃墟を生み出す営みなのだ、という転倒だった。

「廃墟は文字通りに破壊された断片である。多くの欠落部を生じている。その欠落した箇所から、かつて存在していたはずの完全な状態を想像する誘惑にみちびかれる。〔…〕この時間軸をそっくり未来へ向けて逆転してみるとすれば、それは過去を想像のものとして描いたように、未来を描くことになるではないか。〔…〕未来は過去の廃墟のようになる。すくなくとも、いまみる世界の状況は廃墟として、そのまま未来にまで残存するだろう。それに未来に生まれるべき構造体が複合する。時間が反転する。あるいは撹乱する。スケールをディストーションする。不透明で密実な部分に、透明に構成的な要素が結合する。部分的に未来であり、部分的に過去である。」*5

 人は瓦礫を拾い集めることによって、廃墟から新たなイメージを想像/創造することができる。そこでは過去から未来へという直線的なタイムスケールが解体され、時間の断片がモザイク状にイメージを形作るのだ。

 「2020年代セカイ系」の向かうべきビジョンも、ここに示されているように思う。「セカイ系」と呼ばれた作品の大半は、『エヴァ』のヒットにより粗製乱造された、「エヴァっぽい」だけの泡沫的「ガラクタ」(cf.『セカイ系とは何か』)だった。いまになって「セカイ系」を問うのは、その起源たる『エヴァ』が『シン・エヴァ』に至って「青空」を取り戻すまでの物語として完結した一方で、その間に生み出されてきた無数の「ガラクタ」たちが、いまだ来るべきコラージュの素材として打ち捨てられたままになっているからだ。今後「2020年代セカイ系」を語るにあたっては、最近の作品だけでなく過去の作品についても言及していくことになるだろうが、あくまで時間性・歴史性を剥奪された断片としてであり、決してノスタルジー的な動機からではない。過去を復元するためにではなく、未来をコラージュするために、その古名たちは呼び出されるのである。

*1:たとえば、初期インターネットのアンダーグラウンド感とホラー要素を掛け合わせた作風でカルト的な人気を誇るアニメ作品『serial experiments lain』(1998年)がSoundCloudやBandcampといったインターネット上の音楽配信プラットフォームを中心に作品を発表するインディペンデントな海外ミュージシャンに(音声と視覚イメージの双方で)好んで引用されている事実は、ここで述べたような特有の感覚が確かに実在することの傍証となるだろう。具体的な作品例として、サンパウロを拠点に活動するsonhos tomam contaの『wired』(2021年)や、シドニーを拠点に2021年まで活動していたSewerslvtの『Cyberia Lyr1+2=3』(2020年)を挙げておく。

*2:ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、2001年)より。なお表題論文はベンヤミンが20代で著した学位論文だが、そこで彼が積極的に評価しているのはあくまで「初期」ドイツ・ロマン派の芸術理念であることを留意しておきたい。ユダヤ系ドイツ人であるベンヤミンは晩年、当然ながらナチスによるファシズム体制を批判した。論文「複製芸術時代の芸術作品」でベンヤミンは、それまでの(唯一的、複製不可能な)芸術作品がその「アウラ」をもって体現していた「礼拝的(宗教的)価値」が複製技術によって失われた結果、その欠如を埋めるべく「政治の美学化(民族主義を高揚させることによる動員)」が起こり、そのための道具として写真や映画が用いられるようになったと指摘している。ロマン主義民族主義的なものとの結託によってファシズムへの道を開いたとする歴史の見方は依然根強い。2020年代はもちろんナチス以後の時代であり、デジタル化の進展によってベンヤミンの存命時よりも遥かに複製イメージの氾濫する時代でもある。しかしデジタル時代における複製イメージの氾濫とは同時に、パーソナルデバイスとそこにインストールされたアプリケーションを用いた無数のユーザーの手による加工を被ったものであり(複製的でありながら極めて個人的なものでもありうる)、その流通はマスメディア的ではなくネットワーク的になされる(複製イメージの流通を直ちに中央集権的な「動員」のアナロジーと結びつけることはできない)。そもそも当のベンヤミンによって「初期」ドイツ・ロマン派は大文字のドイツ・ロマン派から独立したものとして扱われていたわけだが、デジタル/ネットワーク時代における「青空」表象を捉えるにあたっては、ドイツ・ロマン派の芸術理論を「ファシズムを準備した」という歴史認識から切り離して活用しても良いのではないかと筆者は考えている。

*3:谷川渥編『廃墟大全』(中公文庫、2003年[原著1997年])所収、今泉文子「『廃墟』とロマン主義 断片が生い育つ――ティーク、ノヴァーリスに見るロマン派の廃墟のモティーフ」より。以下、本文より一部を引用する。「要するにドイツ・ロマン派は、感傷主義者のように廃墟に詠嘆せず、自分たちの存在と作品が、それ自体として廃墟であり、断片であると哲学的・美学的に捉えかえすのである。シュレーゲル(筆者註:雑誌『アテネーウム』の編纂などで初期ドイツ・ロマン派の理念を体系化した思想家・作家)は言う――「古代人の多くの作品は断片になってしまった。近代人の多くの作品は成立と同時に断片である」。とはいえ、それで絶望してニヒリズムに陥るまでにはいたっていない。かれらは、あえてその断片から出発し、断片を生きようとする。」

*4:竹熊健太郎編『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(太田出版、1997年)所収のロングインタビューより。発言を一部引用する。「人間ドラマなんて、そうそうやれるもんじゃないですよ。だって、全然わからない他人を描くってことじゃないですか。その上、その関係までも描かなきゃならない。〔…〕僕は、結局、頭の中で考えてもできないんで、しかたなく自分をドラマにそのまま投影している。だから、なんか人間ドラマっぽい感じがするだけで。」

*5:宮本隆司の写真集『新・建築の黙示録』(平凡社、2003年[原著1988年])に収録のテキスト「廃墟論」より。

【座談会】セカイ系・日常系・感傷マゾ――フィクションと私たちの関係、20年間のグラデーションを探る(初出:セカイ系同人誌『ferne』)

この座談会は、本ブログの運営者である北出栞が2021年秋に自費出版した書籍「セカイ系同人誌『ferne』」に収録されたものです。書籍の販売は現在もウェブストアで行っていますので、ご興味おありの方はぜひチェックしてみてください(「セカイ系」をテーマにここでしか読めないインタビューや論考を多数収録しています!)。


以下に掲載する座談会のテーマは、「セカイ系」「日常系」「感傷マゾ」という、3つのフィクションジャンルのグラデーションを探っていこうというものだ。

なぜこの3ジャンルなのか。「日常系」は「空気系」とも呼ばれ、世紀末や2000年問題、米同時多発テロなど「世界の終わり」を予感させる空気が色濃く残る「セカイ系」の時代を超え、東日本大震災が起こるまでのどこか弛緩した2000年代半ば~後半、その存在感を示したジャンルである。一方、「感傷マゾ」は2010年代半ばに登場した比較的新しい概念で、感傷的な架空の田舎の風景にひたる自分自身をどこか自虐的に見てしまう受け手の姿勢を指したもの。「日常系」がアニメの中に描かれた風景を求める「聖地巡礼」を促したのに対し、「感傷マゾ」は「どこでもない」田舎を目指して旅をするという違いがあるのも興味深く、この3ジャンルの作品群について語ることで、時代に応じたフィクションとの距離感の変遷も明らかにできるのではないかと考えた。

お招きしたのは、筆者と普段からTwitter上で交流がある、同世代の信頼するお三方。同人誌ならではの「ゆるい」トーンでなされたことを踏まえつつ、ぜひお楽しみいただければ幸いだ。(司会・構成:北出栞)

注:本座談会は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の2度目の公開延期が決定し、上映を待つまでの期間に収録された。

自己紹介

北出 本日はお集まりいただきありがとうございます。まずはあいうえお順に、自己紹介からお願いできますでしょうか。

サカウヱ サカウヱといいます。もう10年ほど前のことになりますが、大学の卒論でセカイ系を扱いました。当時『秒速5センチメートル』まで発表していた新海誠と『エヴァ』の比較みたいなことをやって、その頃ぐらいまでのセカイ系についての議論はある程度調べたかなという感じです。ちなみに普段Twitter上では青い子症候群、不憫女子、負けヒロイン……そういったフレーズによく反応していて、ブログ記事にまとめたりもしています(笑)。よろしくお願いします。

ヒグチ ヒグチです。今日セカイ系と言われている作品との最初の出会いは、地元の長野にいるときに観た『ほしのこえ』です。「こんなものをひとりで作っている人がいるんだ」というのが何よりの衝撃でした。本腰を入れてアニメを観るようになったのは就職してからで、最初は『探偵オペラ ミルキィホームズ』のような「すちゃらか系」というか、女の子がわいわいする感じの深夜アニメにハマって。その流れで当時盛り上がっていた日常系アニメも観るようになって、今回呼んでいただくきっかけにもなった「日常系とは何か」という文章*1で、セカイ系と日常系をつなげて考えてみたりとか、アニメの演出についての文章をいくつか同人誌やブログに書いたりしている感じです。よろしくお願いします。

わく わくといいます。もともとアニメをたくさん観るほうではなかったんですけど、2015年に『心が叫びたがってるんだ。』(以下『ここさけ』)という映画にハマって、合計で30回くらい劇場で観たんですよ(笑)。それと同時期に人混みの多い観光地を避けて、ローカル線しか通っていないような「なにもない」場所に旅行するようになって。「成瀬順は不憫なんだけど、それをただ見ている自分はもっとクズだ」みたいなマゾヒスティックな成分と、感傷的な田舎という成分を合体させると「感傷マゾ」だ、みたいなことを友人たちと言い始めたんですね。それで「感傷マゾ本」という同人誌*2を作るようになって、2020年秋の文学フリマでvol.5まで出しました。よろしくお願いします。

北出 ありがとうございます。学年的には僕とサカウヱさんとヒグチさんが同世代で、わくさんが少し上かなという感じですよね。ヒグチさんとわくさんがそうですが、社会人になってからとか、『ここさけ』や『君の名は。』以降とか、2010年代以降にアニメをしっかり観るようになったという話をされていたのがこの4人のバランスとして面白いなと思います。

サカウヱ 自分たちの世代は、大学に入学したくらい(2007年頃)にニコニコ動画とかYouTubeとかが出てきた感じでしたよね。アニメ系のコンテンツを触る部分ではその前後でかなり違いがありそうです。

北出 そうですね。僕の自己紹介も兼ねて話しておくと、中高時代はアニメはあまり観ていなくて、BUMP OF CHICKENとかASIAN KUNG-FU GENRATIONとか、いわゆる「ロキノン系」のバンド音楽を聴くのが中心だったんです。で、大学に入学して、音楽をディグる延長でニコ動でボカロ曲を聴き始めて。そこからMAD動画なんかを経由して、『涼宮ハルヒの憂鬱』とか『ひぐらしのなく頃に』とかの深夜アニメを観るようになっていったんですよね。一方、セカイ系ということでいうと、『ほしのこえ』はある種のクラシックというか、教材として高校の図書館に入っていたんです。デジタル教育に力を入れている学校だったので、「今はパソコンひとつでこんなことができるんだ」という、ある種「高尚なもの」として観た記憶があって。で、それらがようやく結びついたのは、大学を卒業した後の2013年頃で。仕事をやめてしまい暇になっていたのもあって、ふと思い立って東浩紀さん周辺のいわゆる「ゼロ年代批評」を読み直したら、「こんなに面白いこと言ってたんだ、ニコ動とかセカイ系とか全部つながるじゃん!」と、めちゃめちゃ周回遅れで思ったんですよね(笑)。

だから年齢的にはセカイ系世代なんだけど、こんな同人誌を作っているのは「あの頃よもう一度」みたいなノスタルジー的な動機ではないということは強調しておきたい。今のインターネットって、個々の発信元が明確なSNSがメインの場になったこともあり、フィクションについて語ること自体がすごく難しくなっていると思うんです。そんな中、インターネットそのものが登場したばかりの頃に生まれた「セカイ系」の作品について考えることは、フィクションと現実、そしてインターネットとの距離感について改めて考える上で、大きなヒントになるんじゃないかという直感があるんですよ。

「社会に価値を感じにくくなった」10年間?

北出 ではまず最初に叩き台として、サカウヱさんにセカイ系についての整理をお願いしたいです。10年前の記憶を呼び起こしつつということで恐縮ですが(笑)。

サカウヱ 了解です。まずセカイ系という単語は、前島賢さんの『セカイ系とは何か』によれば、「ぷるにえブックマーク」というサイトのぷるにえさんという方が「エヴァっぽい作品」をひとまとめに呼ぶために思いついた単語ということでしたね。対象としては『最終兵器彼女』とか『イリヤの空、UFOの夏』などの、「ヒロイン or 世界(社会)」という二択を主人公に迫るタイプの作品。新海誠の『雲のむこう、約束の場所』(以下『雲のむこう』)はそれを明確に意識している作品ですね。主人公と幼馴染の男の子、あとヒロインがいるんですが、ヒロインがある日眠りについてしまって、よくよく調べてみたら北海道に突然出現した「塔」と連動しているということが判明する。ヒロインが覚醒すると塔が活性化して北海道が飲み込まれる――この原理も実際に飲み込まれていく様子も、すごく抽象的でふわっとしているのですが――から、「北海道をぶっ壊すか、ヒロインを目覚めさせるか、どっちか選べ」みたいな話になっていって、まさにそういうセリフを大人になった主人公に対して幼馴染の男の子が言う場面がある。

その上で、僕がピックアップしたいのは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下『破』、他の「新劇場版」についても以下略記)と『天気の子』です。『破』はみなさんご存じの通り、碇シンジ綾波レイを救うところで「ヒロイン or 世界」の二択がありますね。結果「ニアサードインパクト」が発生したことで人類はほぼ絶滅、世界が崩壊した後の光景を『Q』で見せられることになります。そして『天気の子』では、「天気なんて狂ったままでいい!」と主人公に言わせた上でヒロインを助け、その結果東京が水没する。ここ10年、「ヒロイン or 世界(社会)」というタイプの作品において明確にヒロインを選ぶことが増えてきているのは、それを肯定できるような世の中になってきている……つまり社会というものに対して価値を感じにくくなってきているから、「だったら今目の前にいるヒロインを助けよう」という主人公の決断に観客が共感しやすくなったからなんじゃないかと自分は思っています。

北出 「社会というものに対して価値を感じにくくなった」というのは、サカウヱさん的には『雲のむこう』から『破』を経て『天気の子』に至る15年くらいの間に、少しずつそうなってきたという感覚なんでしょうか。

サカウヱ まあ、僕がこの10年くらいで社会人になったからというのはあります。ちょうど就職のタイミングでリーマンショックがあったし、「あ、世の中よくなってきた」って感覚がなかなかないまま現在まで来ちゃったなという感覚はすごくあって。そんな中目に入ってきた作品を挙げてるので、ある程度恣意的にはなっているとは思うんですけど。

で、そんな風に社会の価値が縮まってきている中で、学校とかある街とか、社会からは隔離された舞台の中で女の子がたくさん出てきてわいわいしている、いわゆる「きらら系」の作品が人気を博していきました。同時期にアイドルものも流行りましたけど、ちょっと違うのは、こっちには社会的な要素が入ってくる。ライバルがいたり、運営がひどい会社だったり、あるいは本人の個人的な問題であったり、そういうものを乗り越えていった上で成功していく物語になっているんですね。現実の社会に生きている視聴者が、自分を投影しつつ応援できるというのがポイントだったんじゃないかなと。

ヒグチ 実際にアイドルを仕事にしている人ってすごく限られている。我々のやっている仕事を抽象的にしたものとして「アイドル」という仕事がちょうど良かったのかなと思うんです。その意味でアイドルと似ていると自分が思うのが「架空の部活」で、たとえば『ガールズ&パンツァー』の戦車道とか。こういう抽象化されたものを題材にした作品がヒットするのって、そういう抽象性に、視聴者の日々の仕事のつらいことだったり、喜びだったりを乗せることができるからなのかもしれません。

感傷マゾと日常系の「メタ視点」

北出 続いて「日常系」と「感傷マゾ」についても整理していきたいのですが、比較的新しい言葉である「感傷マゾ」から先に触れていこうかなと。「セカイ系」で言うところのぷるにえさんに当たるわくさんに(笑)、ぜひご説明いただければと思います。

わく わかりました。感傷マゾというのは、ざっくり言うと「失われた青春への祈り」みたいなものですね。よく青春に対する典型的イメージで、「麦わら帽子に白ワンピースの少女」とか「浴衣姿の女の子と夏祭りに行く」とか、そういうのがあるじゃないですか。そこまでコテコテの青春像・ヒロイン像を直球で描いた作品はそんなにないにも関わらず、そういう集合的無意識みたいなイメージを多くの人は持っている。だいたいの人は現実の青春なんてアニメやラノベに描かれるような劇的なものではないと分かって、青春との距離感を上手く取ってそのうち忘れていくんですが、そうでもない人もいる。「人は10代の頃に果たせなかったことに一生固執する」という言葉があるけれど、10代が終わって20代、下手すると30代になっても、「青春の頃に、恋人とこういうことをしたかった」という呪縛に囚われる人ってけっこういると思うんですよね。「私が今、人生をまともに進められていないのは、そのスタートの青春に躓いたからなんじゃないか。もし、あの時……」みたいな。その人の中では、会社や大学とコンビニを満員電車で往復するだけみたいな無味乾燥な現実と、そうではない概念じみた理想の青春を対比して、今の俺の現実はダメだみたいな自虐に陥りやすい。その自虐自体が次第に気持ちよくなっていく……というのが感傷マゾです。

その流れで言うと、自分は日常系とメタ視点の関係が気になっています。『ヨコハマ買い出し紀行』とか『神戸在住』のような90年代の日常系漫画を読むと、日常を営む人たちを観察するポジションに主人公が立っていて、あれは読者の視点に近いと思うんですよ。でも、ゼロ年代以降の日常系アニメでは視聴者の立ち位置にいるキャラクターはあまりいない気がする。

北出 なるほど。そこでヒグチさんにお話を聞いてみたいんですけど、ヒグチさんの書かれた「日常系とは何か」という文章は、まさに観客の視点にフォーカスしていますよね。観客の視点というものは、ヒグチさんの言葉でいうと「死者の目」であると。要は幽霊のような視点として、そこにはいないものの視点として日常を見る目線の存在が、日常系と言われる作品を規定しているのではないかという議論だったと思うんですけど。

ヒグチ そうですね。あの文章は平たく言うと「日常系をどうしてエモいと思うのか」について、「エモい」という状態にはメタ的な視点が必須なんじゃないかという話です。たとえば夕陽の射す砂浜で恋人たちが追いかけっこをしていたとして、本人は「これ、エモいな」とはなかなか思わないだろうと。単に青春的な行為をするだけではなくて、その青春を少し外側から見ている視点……追いかけっこをしている二人から少し離れて、たとえば光る波とか、夕焼けとか、そういうものを含めて、その空間自体を少し外側から見ないとやっぱり「エモい」って感情は生まれないと思うんですよね。

サカウヱ エモってもともと音楽用語ですよね。メロコア系のバンド、たとえばELLEGARDENのライブに行って、泣ける系の曲を聴いて「こんないい曲をみんなで盛り上がってちょっと泣けてくるな」みたいな。そういう空気のことを最初「エモい」って言ってたと思うんですよ。「こういう場にいる俺を上から見て、この状況エモい」と。

ヒグチ そう、そしてそれは日常系アニメの中にもあるんですよ。たとえば『ご注文はうさぎですか?』でココアのお姉さんがやってくる話とか、『けいおん!』のさわ子先生とか、『ゆゆ式』だったら“お母さん先生”とか。そういう形で、主人公たちの生活を外側から見る視点というのは必ず導入されているんです。「日常系アニメを観る」という体験が成立するには、画面の中で描かれている生活を少し外側から見る視点が必要なんじゃないかと。実は『ARIA』のアニメ版の監督だった佐藤順一さんも同じようなことをおっしゃっていて、「悪意のない世界観に関して、悪意のない世界を見て感動するってだけではなくて、その感動する自分に少し酔うところまでも視聴者は楽しみにしているはずだ。そのために演出を工夫して、そういう楽しみ方を後押ししていたんだ」という趣旨の話をされてるんですね*3

具体的な作品として特に挙げたいのは2013年の『GJ部』です。通常はさっき言ったように、作品の中にメタ視点となるようなキャラクターが導入されるんですけど、『GJ部』の終盤ではそれまで各話の最後に細切れに描かれてきたCパートが、実はすべて卒業式の前日を描いていたということが明かされる。つまり視聴者が観ていた本編はすべて回想だったということで、キャラクターたち自身が「これから先、何度もこの日々を青春として思い返していくんだろうな」というメタ視点を獲得していく終わり方になっている。つまり『GJ部』は、大人キャラクターとしてメタ視点の依り代を導入するのではなく、キャラクターたち自身が自分たちの青春をメタ視していくように変化したという意味で、日常系の洗練を象徴する作品だったと思います。

そしてその洗練の先にあるのが、いわゆるポストアポカリプスものだという考え方もできると思います。たとえば『少女終末旅行』。これはすでに滅んでしまった世界を、すでに静かになった時代から観察していく話ですけど、これは今まさに我々が暮らしている日常世界に対するメタ視点を獲得するために、日常世界がすでに滅びて過去になってしまったという設定を導入しているわけです。こうして日常系のメタ視点の獲得の仕方は10年の間に、キャラクターとして導入されるのか、当人たちの意識の中に導入されるのか、そして最終的には世界観設定の内に導入されるのかという形で推移してきたんじゃないのかというのが自分の見立てなんです。

わく それを聞いて、川端康成による「末期の眼」という文章のことを思い出しました。これは芥川龍之介の死に際して書かれたもので、「人間が死ぬ直前になると、さまざまなものが美しく見えてくる、そういうものを文学は書くべきなんじゃないか」と、ざっくり言うとそういう話をしているんですね。ヒグチさんの「死者の目」……メタ視点から見たときに日常が美しく見えてくるという話は、「人生から見たメタ視点」の立ち位置、「死」みたいなところから人生を見ると美しく見えてくるというのと近いのかもしれません。

「虚構エモ」について

サカウヱ エモの話でいうと、僕は『感傷マゾ本』vol.1の座談会*4に出てきた「虚構エモ」という単語にピンとくるものがありました。数年前に清涼飲料水系のCMでやけによく見た「青春だ!」みたいなイメージと一致するというか。

わく 虚構エモは、ざっくり言うと感傷マゾからマゾ的要素を抜いたものですね。サカウヱさんのおっしゃった座談会で、「感傷マゾという言葉でTwitter検索したら、単に嘘っぽいエモさを感傷マゾと呼んでいる人が多くて、感傷マゾに籠められた自虐的要素が少ない気がする」と僕が言ったら、友人のスケアさんが「それは感傷マゾというより、虚構エモと呼んだ方が適切かもね」と返したのが始まりです。感傷マゾ本に寄稿して下さる10代から20代の人の原稿やツイートを読むと、僕らのような30代のオタクよりも自虐的要素が少ないんですよ。かといって、現実ばかり見ているかというとそうでもなくて、作家の三秋縋さんとか音楽ユニットのヨルシカさんとかイラストレーターのloundrawさんとか、エモい要素を際立たせるタイプのクリエイターの作品には好んで触れている。

サカウヱ いろいろとハードな世の中における、「こういう世界だったらいいな」って憧れから出てるトレンドなんじゃないかという気もします。そういう意味では日常系に近いところもあると思う。

わく TwitterなどのSNSをやっていると「人生のネタバレ」がバンバン流れてくる、みたいな話ってありますよね。このまま生きていったら30代で年収何万円とか、老人ホームに入れたらまだラッキーなほうだなとか。割と大人の世代の人たちがそういうことをバンバンツイートするから、それをもとに10代の人たちも「あ、俺の人生ってこのあとこういう風になっちゃうんだな」って思っちゃうという。青春の中に現在進行形でいるはずなんだけど、どうしても「人生のネタバレ」をされちゃってるから、「これは儚いものだな」ということを彼ら自身もわかっている。だったら逆に茶番として青春をやろうみたいな、「現在進行形のメタ視点」みたいなものがあるような気がして。

でもそれは感傷マゾの自虐的な――どうしようもない過去の青春に対する時間的遠さに起因する――「仮定法過去のメタ視点」とはやっぱり性質が違うんですよね。「あの時、好きな女の子に声をかけていれば……」みたいなことを20代になっても悶々と悩むのとは、根本的に視点が異なる。虚構エモはどちらかというと、自分たちは青春アニメのキャラだと認識しつつ、ストーリーから逸脱しないキャラクターの視点に近いと思います。

北出 そもそも今の若い世代は「自分は今メタ視点に立っている」って言語的に意識することがあまりないんじゃないかと思うんですよね。Instagramなどの非言語メディアで「エモの最大公約数」が共有されているから、同じような映像・画像を目にしたときに「エモ駆動回路」みたいなのが自動的に発動するようになっているんじゃないのかなと。

サカウヱ コンテンツの作り手側も、それを意識している部分がありそうです。アニメ版『呪術廻戦』第2クールのED映像には、主人公の虎杖悠仁スマホで仲間たちが戯れているのを撮っているという体で、縦長の映像(画面全体に対して、左右の端が黒抜きになっている)が使われているんですね。このシーンは原作にはないし、そもそもあり得ないはずの光景――バトルものである本編の時間軸では、映像でキャラクターたちが着ている冬服の時期に、わいわい楽しくやれているはずがない――ということも含めて感傷的なわけですが……「カメラを向ける」ということは対象に対して自動的にメタ視点に立てるという意味で、視聴者にエモい感情を起こさせるために使いやすいモチーフなんですよね。

わく あえて言葉にするなら、「永遠的なものが、実は無常なものだなってわかった瞬間」が「エモ」なんだと自分は思います。たとえば僕が10年ぶりくらいに、自分が小学生の頃の小学校付近に行くとする。「自分が子供のころと全然変わってないな」というのは単なるノスタルジーですけど、あるところで実はその小学校がもう廃校になったとわかると、「自分の小学校のときの記憶は永遠にあると思っていたけど、それも消えていってしまうものなんだな」と感じる。永遠と儚さとのバランスによってエモが生まれるのかなという気はするんですよね。

「終わるセカイ」の心象風景

北出 なるほど。ここでセカイ系の話に強引に戻すと(笑)、セカイ系って、サカウヱさんが最初言ってくださったように「世界が滅ぶか、ヒロインか」みたいな、割とスパッとその世界が終わってしまう……かもしれないみたいなところを、物語のクライマックスとして前提にしているところはあると思うんですね。なので今わくさんがおっしゃったことも含め、「終わってしまう」ということに対する感覚の差異としてセカイ系~日常系~感傷マゾのグラデーションを記述できるんじゃないかと。

というのも日常系って、「卒業とか青春とかは終わるかもしれないけど、世界が突然終わったりはしないよね」みたいな、ある種の世界に対する信頼感みたいなものに支えられていた部分もあったと思うんです。でも一方で「世界はある瞬間に突然終わってしまうかもしれない」という感覚も人間は持つもので。セカイ系が最初に流行った世紀末付近はもちろん、『天気の子』を作った理由として新海さんが言っていたように、気候変動みたいなものによってそれまでの世界が「終わってしまう」という感覚は、今また強まっている。

サカウヱ 『天気の子』は「結局東京は沈むけど、人はそれに順応して生きていくよね」という話だと捉えています。水上バスとか走ってたじゃないですか。世界の形が変わって街が水に沈んだとしても、きっとそれに対して人は順応して生きていけるよってそういうポジティブなメッセージだなと僕は思ったんですよね。

ヒグチ 言い換えれば、『天気の子』のラストって「ニアサードインパクトは起こらなかった」という話ですよね。『ヱヴァ破』と『ヱヴァQ』にしても『天気の子』にしてもどちらも大ヒットしていて、その間に我々の世界に対する感覚が変わったのかもしれない。ヒロインを救ったら世界が終わってしまうと思ってたけど、それでも社会は生き物として、ダメージを受けてもまた回復していくという風に……。

2000年代~2010年代にもそれまでの常識から外れるような破壊的な出来事は何度もありましたよね。2001年にはニューヨークの世界同時多発テロ、2011年には東日本大震災、2020年には新型コロナウイルスによるパンデミック。ただそれは地球を丸ごと破壊してそれきりというようなものではなかったと思うんです。残された人たちがその傷跡をどういう風に補っていくかが、ずっと我々の頭の一部を占めているような、そういう被害だった。サカウヱさんが、セカイ系作品での世界崩壊描写はどこか抽象的だというお話をされていましたが、多分それはセカイ系作品で発生する世界崩壊は、現実世界の「世界」ではなく心象風景の「セカイ」の崩壊のことを指していたからなんじゃないかなと思うんです。

北出 逆に言うと、90年代末からゼロ年代前半にセカイ系と言われていたような作品、心象風景としての「世界の終わり」みたいなものに当時一定の説得力があったというのは、どういうことなんだろうなと思いますよね。

サカウヱ あの頃って21世紀に向けて終末思想みたいなものが流行っていましたよね。テレビでもよく心霊写真特集とかやってたし、「たけしのTVタックル」でやってためちゃくちゃなノストラダムスの予言解釈特集とか、宜保愛子とか、あとはオウムとか……カルト的なものの隆盛と、2000年に向けて漠然と「世界が終わる」みたいな雰囲気があって。しかも世界が終わることへの危機感より、ちょっと期待感みたいな雰囲気が強かった気がしますね。何かすごいことが起こるんじゃないかもしれない、みたいな。

わく 90年代の終末感って、そんなに現実の終末的出来事を反映したものでもなかったと思うんですよね。ノストラダムスの大予言は、五島勉が1973年に同名の著作を発表してから有名になったけど、その当時は東西冷戦という「もしかすると、人類が滅びるかもしれない」という現実の危機感があった。でも、ソ連の崩壊でその危機感はなくなった。日本もバブル崩壊やら阪神大震災やらがあったけど、それらは世界じゃなくて日本の衰退に繋がる出来事じゃないですか。どちらかというと、それらの国内の出来事によって終末願望が高まって、その願望を現実へと反映させようとしたというのが、90年代の終末感のような気がするんですよ。オウム真理教の事件も、そういうことだと思う。

その流れで言うと、当時『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を観て、シンジという個人の心象風景を世界の終末とリンクさせるのが画期的だと感じましたね。もちろん、探せばそういう作品は90年代より前にあったのかもしれないけど、当時は知らなかった。自分にとってセカイ系は、心象風景を世界に反映させるポスト・エヴァの作品群という印象が強かったですね。

新海誠と「ここではないどこか」

北出 昨年の夏、下北沢トリウッドで、新海誠作品を『彼女と彼女の猫』から『天気の子』まで一日かけてすべて上映するというイベントに行きました。そうしたら最後になんと新海さん自身がZoomで登場して、質問させてもらうことができたんです。そこで自分がしたのは「新海さんの作品には“アガルタ”という名前で時に呼ばれる、異界のような場所が必ず登場しますが、どういった意図があって取り入れているんでしょうか」という質問で、新海さんは「それは死の世界みたいなもので、フィクションの物語である以上、主人公やヒロインをそういう限界の地点まで連れていってあげたい。そこで大切なものを持ち帰って、現実を生き抜く糧にしていってほしい。それは『ほしのこえ』からずっと一貫しているんです」と、おおよそこのように答えてくださったんです。

新海作品では最初から心象風景というか、「死の世界」と「現実」が明確に切り分けられているんですよね。これは現実を生きている僕らとフィクション・物語一般との関係にも対応させることができると思います。僕が「セカイ系」というものにこだわっている理由は、そういう心象風景的なものが今すごく蔑ろにされているというか、そんなものを大事にするのは軟弱だ、現実逃避だみたいな風にともすると言われがちなことに対してすごく違和感があるからで。ひいては物語一般に対する信頼感みたいなものが、世の中的にすごくいま薄れていっているんじゃないかという問題意識があるんです。

わく 異界は、自分がいる場所と完全に隔絶しているのではなく、自分の心象風景というフィルターを通した場所だと思うんですね。「ここではないどこか」に対する憧れは、異界に対する理解よりもむしろ無理解から生じる自身の妄想に基づいている。インターネットは様々なものを接続して、場所を問わずにアクセス可能にしていく。そういう意味でインターネットと異界は致命的に相性が悪いと思います。でも、その状態が健全だとも思えないんですよね。異界という外部を失って内部しかない状態だと、どこに行けばいいのかも分からないし、Twitterで自虐ツイートを呟いていたら人生が終わりそうな気がする。

サカウヱ もうその人物がいる空間と、無関係な別の異空間が無関係に両立するみたいな話自体難しくなってきてますよね。冴えない主人公が学校から帰ってきて、パソコンを立ち上げて電脳空間みたいな別の場所へ完全な別人格として没入する、という筋書きの物語は難しくなってきている。『ソードアート・オンライン』がギリギリその役割を持っていたと思うんですけど、最近の同作の展開は、もう完全にゲーム内社会と現実社会の事情がリンクしちゃってますからね。

ヒグチ この20年でアニメがオタクだけのものではなく、若者の多くが自然に観るメディアに変化してきたことも要因のひとつかもしれないですね。心象風景の内側の対話劇ではなく、実際の身の回りの人々と関わることの具体的な苦しみにフォーカスすることも多くなってきたと思います。その中でセカイ系的な心象風景の描写の射程が、相対的に近くになってきたということなのかもしれない。

わく SNSの勃興も大きいでしょうね。今は、TwitterにしろYouTubeにしろTikTokにしろInstagramにしろ、ネットサービスを通して他人と常時接続しているじゃないですか。創作物における心象風景って、要は妄想の風景だと思うんですが、それは他者と隔絶した孤立状態でないとなかなか生まれないと思う。僕自身インターネットを始めたのは大学生になってからですが、ネット接続していない高校生の頃が、最も盛んに妄想していました。

北出 ひなびた温泉地に行って写真を撮り、SNSに気の利いた短文とともに上げるというわくさんのムーヴは、「SNSによって心象風景が薄れている」という現状への抵抗のように見える側面もあります。普段から概念としての「感傷マゾ」「虚構エモ」についてのわくさんのツイートを読んでいる僕らからすると、それこそ「感傷マゾ」とか「虚構エモ」の典型的な風景のようにわくさんの撮った写真が見えてくるんですよ。

わく 確かに僕が旅行先に求めているのは、ある種の心象風景ですね。僕も20代の頃までは京都とか奈良とか広島とか有名な観光地ばかり回っていたんですが、ある時、京都の市バスの中でぎゅうぎゅう詰めにされて河原町に向かっていると、気がついたんですよ。「あれ、今の状態は、東京で満員電車に乗って通勤しているのと大差ないぞ」と。それからひなびた温泉とか寂れた港町とか、なるべく、無味乾燥な日常の通勤風景とは根本的に異なる場所ばかり回るようになりました。僕の相互フォロワーの人には、感傷マゾの人以外に、廃墟や秘湯などを回る旅行アカウントの人もそこそこいるんですが、彼らも似たようなことを考えている気がします。みんな、労働への憎しみについて呟いていますからね(笑)。

セカイ系と「地形」の関係

北出 セカイ系的な作品が生まれやすい土地があるんじゃないかという話が、事前に軽く打ち合わせした時に出ましたね。ちょうど旅行の話が出たので、この点についても掘り下げられればと思います。

わく 自分は最近、米山俊直という文化人類学者が書いた『小盆地宇宙と日本文化』という本を読んでいて、そこでは「日本文化は地形を無視して単一文化として語られがちで、それを構成する単位が無視されがちである。盆地という独自の文化を持つ閉鎖的空間を一つの単位として、日本文化を見直せないか」みたいな話がされていました。セカイ系の話で言うと、地形によって「セカイ」の認識しやすさが異なるんじゃないか。周りを山で囲まれた盆地は閉鎖的空間だから、「セカイ」という言葉を使いやすい気がするんですよね。例えば、地平線が続くアラビアの砂漠でセカイ系は生まれるのかというと、セカイを区切る壁が存在しないから認識しにくいんじゃないかなと。

ただ、それらは物理的な壁であって、他に心理的な壁もありえるのではないかと思います。僕は千葉市という東京郊外の埋立地で生まれ育ったんですが、千葉県の千葉市から東京まではそれぞれの地域が分断されているんですよ。千葉市津田沼船橋、市川、浦安みたいな。それぞれ、地元と外部としての東京しかなくて、総武線で新宿や秋葉原に向かうことはあっても、別の千葉県内の駅に向かうことはほとんどない。日常生活でほしいものは地元で買えばいいし、それぞれの住宅地で友人の家に向かうとき以外は、別に用もない。そうなると、高校生の頃は「自分はずっと千葉市で埋没してしまうんじゃないか」という不安がありましたね。ここではないどこかに行きたくて、自転車で千葉街道を上って東京に向かおうとして、海浜幕張についたらすぐに帰るとかしていました。

サカウヱ 「どこ住み?」って聞かれて駅ベースで回答するのって大都市特有だと思うんですよ。自分は青森出身なんですけど、駅ベースで答えることはまずない。駅ごとに生活のコミュニティが括られているという意味で、大都市特有の「つながっているのに閉じた感じ」がセカイ系の想像力につながっているというのは理解できますね。

北出 路線図ってネットワークじゃないですか。要は辿っていけば必ずどこかに辿り着けるみたいなことで……僕はやっぱりセカイ系というのは、どちらかというとネットワークの外側にある「どこか」を目指すものであってほしいと思っていて、それこそ『君の名は。』じゃないですけど、「岐阜 or 東京」みたいな大きな対立を作りやすいところのほうが生まれやすいのかなという印象があるんですよね。

わく ネットワークから完全に隔絶していると、「ここではないどこか」に対する想像力も持ちにくいんじゃないんでしょうか。電車に乗れば東京に行けなくもないけれど、特別なイベントもないと行く機会もないくらいの地方都市の方が、セカイ系の想像力につながっている気がします。全くつながっていない場所への想像力を持つことって、難しいですよ。

サカウヱ 新海さんはどうだったんですかね。彼は長野県の小海というところの出身ですが。

ヒグチ 自分は長野県でも北陸寄りの盆地出身なんですが、新海さんの出身地の小海町は、長野県東部の高地ですね。盆地の人間の感覚だと、県境イコール山なので、自分の住んでいる場所とそうでない場所の境界線は山の輪郭で区切られてるんです。小海町とは標高がかなり違う(400~500メートル)ので、見えていた風景もかなり違うはず。

サカウヱ 長野も北と南で全然文化違いますよね。北陸寄りか、東海寄りか。青森も津軽と南部で分かれてて、やっぱりその境には山がある。コミュニティを切り取るファクターとして地形は重要だと思います。

北出 作者の住んでいた地域の地形が物語に影響を与えているという意味だと、やっぱり一番わかりやすいのは『進撃の巨人』ですよね。諌山創さんは、「故郷が山に囲まれているところだったから、壁に囲まれているところから出ようとする人の話を描いた」と明確に言っているので。

サカウヱ それでいうと『ゆるキャン△』もそうで、山梨という山に囲まれ切り取られた土地で話が展開していますよね。そこから志摩リンが静岡まで出かけるという話がアニメ2期では展開されている。一方で各務原なでしこは静岡から山梨に引っ越してきて、地形で分断されたコミュニティを行き来してる異端者なわけです。

ウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』という古典があります。西洋の昔話の構造分析をしている本なんですけど、登場人物が森に行く、というのが重要とされているんですね。森とは危険と隣り合わせの死の世界……つまり異世界だと。普段住んでいるコミュニティから森という異世界に行って、いろんな出来事が発生して、それをクリアした登場人物がまたもとのコミュニティに戻っていく。その過程の中で、登場人物が物語の冒頭と比べて成長したり変化する。こうした「行って帰ってくる」ということが物語を構成する基本要素になっている、ということを言っているんですね。

北出 まさしく新海作品にとっての「アガルタ」の効果ですね。新海作品の場合、変化した後の生き方については具体的に描写せず終わっていくんですけど。

わく 新海作品における東京の描写についても言うと、僕は『天気の子』で新宿のTOHOシネマズ周辺や池袋の繁華街の描写がされているのを見て、やっと自分が知る東京の描写が出てきたと思ったんです。特に『君の名は。』の瀧が住む都心のマンションとか新宿御苑のイタリアンレストランとか、普段の僕の行動範囲からかけ離れているので。

サカウヱ 僕が初めて上京したときは東北新幹線で東京駅着だったので、新宿を「東京」として認識したのはけっこう後になってからでしたね。新海さんの出身地から東京に来ると終点は新宿のはずなので、彼の作品では新宿が重要な街になっているんじゃないでしょうか。もし新海さんが東北出身もしくは東海道線沿いに生まれていたら、新宿ではなくて東京駅が重要な街になっていたかもしれないですね。

北出 いずれにせよ抽象的な「東京」なんですよね、新海作品の東京というのは。帆高の回想シーンで、「あの光の中に君がいたんだ」っていう、崖に自転車を漕いで行って、光がファーって海面を動いていくのを眺めるというのがあるじゃないですか。あの向こうに光輝く何かがある、「何か」でしかないけど何かはあるっていう。で、実際に物語が展開するのはその「どこか」である東京なんだけど、すごくローカルな新宿の話で。そういう意味では『天気の子』って「ここではない、どこか」を目指すタイプのセカイ系とは構造が逆って感じがするんですよね。「行ってみたら大したことなかった」みたいな話になっている。

チェンソーマン』、葛藤なき主人公像

北出 そういえば、現代の都市を舞台に貧しい少年を描いているという点で、漫画『チェンソーマン』が『天気の子』と比較されるのを見かけることがあります。

わく 自分がよく目にする『チェンソーマン』についてのフレーズは「令和のデビルマン」というもので。『デビルマン』の最終巻で、人間たちが牧村夫妻を拷問にかけるシーンがありますね。あそこで、主人公の不動明は自分が悪魔から守っていたはずの人間たちが、実は悪魔そのもののような行動を行うことに衝撃を受けてしまう。「正義のはずの人間こそが悪」というグノーシス的展開が『デビルマン』の特徴だと思うんです。

ヒグチ その辺りに、のちのセカイ系に繋がる要素を感じますね。主人公の中の葛藤が、人類の存亡をかけたものへと展開していく部分。実際『エヴァ』にもそれを思わせる描写はけっこう露骨な形で引き継がれていると思います。

わく そうですね。でもデンジが同じ状況に陥っても、不動明ほど人間と悪魔の関係に悩んだり、人間全体を守ろうとは考えないと思うんですよ。彼の欲求はすごく小さくて、「かわいい女の子と付き合いたい」とか、「美味しいご飯を食べたい」とか、そのくらいなんですよね。そして、ヒルの悪魔との対決で、「みんな偉い夢持ってていいなア!! じゃあ夢バトルしようぜ! 夢バトル!!」というセリフを言うように、デンジ自身が自分の欲求の小ささを自覚している。そこが不動明と根本的に異なるし、同時に現代の作品っぽいなとも思うんですよね。

サカウヱ そもそもデンジは世界がどうこうという問題について全く悩んでないんですよね。少なくとも物語開始当初のデンジにとっての望みって「いい朝飯が食えて、いい女の近くにいる」ことだけだから(笑)。そもそも親のせいで借金取りにこき使われる生活をしてただけのデンジにとって、社会とか世界って悩むほどの価値がない。だから「ヒロイン vs 世界」みたいな選択も生まれない。

わく よくセカイ系は「社会が描かれていない」と批判されることがありますが、最終的に社会とか世界よりもヒロインを選ぶことが多いというだけで、社会や世界の理不尽さに直面した際の悲しみや憎しみは、描かれている作品もむしろ多いと思うんですよね。僕が「ヒロイン vs 世界」みたいな選択の要素がある作品とか、『デビルマン』のようなグノーシス的展開の作品が好きなのもそういう理由です。だから、現実の社会は嫌いだけど、「社会には悩むだけの価値がある」と証明されてほしいというアンビバレントな気持ちがあります。

北出 前島賢さんの『セカイ系とは何か』に、セカイとカタカナで書くということは、これは漢字のいわゆる「世界」ってものではないんだ、それでもなお「セカイ」と言うんだ、みたいな反省意識が表れているんだという話があります。昨今の作品の主人公像に葛藤や反省の要素がなくなっていて、しかも読者の支持を得ているとなれば、今はセカイ系が流行っていた時期と比べて、葛藤や反省というもの自体を人がしにくくなっている時代だという仮定も成り立つと思うんですが。

サカウヱ そもそも悩むための参考になる社会規範が薄れてきていると感じますね。就職して、ずっと同じ会社で働いて、稼いだら家や車買って……みたいな画一的な日本的なライフスタイルがほぼ崩壊して、モデルケースになる「普通の生活」がなくなってきている。その一方で好きな生き方を選べる自由、みたいなこともよく言われますけど、本来選択すること自体大変なことだし、その選択による責任は完全に自己責任扱いになってきてますよね。

ヒグチ 選択ができること、できないことの格差はこれからの課題として、とても大きなものになっていくと思います。たとえばYouTuberみたいな成功への道がそれこそ誰にも開かれているとき、それを利用できないのは単純に能力の問題になってしまう。YouTubeの「好きなことで、生きていく」という2014年のコピーライティングに対して、「けしからん!」みたいな声ってすごく多かったと思うんです。今思えばあれば、そういう能力格差がフラットに可視化されてしまう世界観に対する、生理的な忌避感だったんじゃないかなと。

『天気の子』を社会の側から観る

北出 帆高はデンジとは対照的に、クライマックスで大きな「決断」をしています。晴れ女バイトで生活費を稼ぐ、というところまでは「現代的な貧困の中に生きる主人公」として彼をデンジと同じタイプの主人公として見ることもできるんだけど、能力の代償みたいなものが陽菜に返ってきたことによって、いきなり「世界か陽菜か」みたいな話をしだす。週刊連載の漫画と2時間の映画を比較するのも野暮かもしれませんが、そこに跳躍感があると僕は何度観ても感じるんですよね。

ヒグチ 「お金」という軸を噛ませることで、「世界か陽菜か」というセカイ系の図式を、現実世界のアクチュアルな問題に接続してみせたのが、僕が『天気の子』を最も評価している点なんですよね。帆高は「そりゃあ雨より晴れのほうがいいよ」と陽菜になんの気なしに答えるけど、我々の社会ってそういう「そりゃあコンビニは24時間開いているほうがいいよ」といったような素朴な便利さの肯定によって、誰かの心身を搾取しているということに無自覚ですよね。ステーキが1枚食べられるたびに、地球のどこかの水資源が消費されるという話はよく言われるけど、もっと身近なところにそういう小さな「世界か陽菜か」の二者択一があって、それらが集まってこの社会を作っている。そういう自分に連なる世界を、きちんと自分ごととして少しでも引き受けていかないと社会は良くなっていかないよ、という批判を『天気の子』に感じるんですよ。

北出 ヒグチさんのおっしゃることはその通りだと思いつつ、僕は晴れ女バイトをして、みんなが笑顔になっていくというあのシーンで毎回泣いてしまうんですよ。社会に居場所がなかった子供たちが笑顔になっていって、周りの人たちにも感謝されて、結婚式で一緒に写真を撮ったり、幼稚園児がありがとうと言って小銭をくれたりするみたいなのを見ると、「ああ、よかったな」って素朴に思ってしまうんです。この映画が「人はみな資本主義社会の中に取り込まれている、そこから目覚めろ」って話だと言われたら否定はしないんだけど、僕はあの、一番最初にありがとうって言われた瞬間の陽菜の輝くような笑顔を、「資本に取り込まれていて、何も気づかない無垢すぎる少女」みたいには思いたくないというか。世の中のために少しいいことができたって思えた、自分のことを肯定できたその瞬間というものを、どうしても否定したくないという気持ちがあって。

凪が「全部お前のせいだ!」って最後言いますけど、僕はあのセリフに一番ぐっとくるんです。凪からしたら意味がわからないと思うんですよ、大好きな姉ちゃんが自分の知らない間に急に悟ったような顔をして、「凪をよろしくね」と帆高にだけ言って消えちゃうのとか。要は帆高と陽菜は社会の残酷な構造に気づいて、その責任を引き受けたってことなんでしょうけど、僕はどうしても社会とか世の中の複雑な仕組みとかもよくわからない子供の心の動きに寄り添いたいというか、素朴にその気持ちになって観てしまう。なので、とりあえず僕は陽菜が何を考えていたのかが知りたい、凪に代わって(笑)。

ヒグチ 新卒で入ったブラック企業で初めて勤労の嬉しさを知ることと、心身を消耗した結果周りの人々に何も言わずに失踪してしまうという事態は、両立してしまいますからね。前提として、陽菜に起こっていること自体は、実際にあり得ることなんじゃないかなと。

サカウヱ しかも、陽菜は年齢もごまかしてバイトしないといけないような状況じゃないですか。そんな状況を打破できそうな晴れ女業が、たとえ自分が大きなリスクを追うことだったとしても凪の生活のためには続けないといけないし、そして協力をしてくれた帆高にも悪いみたいな気持ちはあったんじゃないですかね。他に選択肢が見つけられなくて、そうするしかなかったみたいな気持ちというか。

北出 なるほどなあ……ちょっと人生相談みたいになって恐縮なんですけど、「大人の責任」みたいなことを最近すごい考えるんですよね。ヒグチさんの「女子高生が中心の日常系アニメを先生の視点で観る」という話にも通ずるかもしれませんが、大人は大人としての視点で作品を見なければいけない、あくまでそのアングルから何かを受け取って、仕事を頑張るなりして次の世代につないでいくのが責任なのかなみたいには思いつつ、どうしても子供の視点で見ちゃう自分ってどうなんだろうと……たとえば『プリキュア』を観た大人が、「プリキュアが頑張ってるように自分も仕事を頑張ろう」みたいに思うことはどうなのかってことなんですけど。

サカウヱ プリキュア自身に自分を重ねる必要は全くなくて、プリキュアから学んだ生き方とか、そういうものを自分の中で昇華して生きるってことが大事なんじゃないですかね。北出さんの考える次世代のために、というのはとても重要なことだと思うんですけど、漠然と誰かのためにって思ってもなかなか届いてほしい人に届かないと思うんですよ。

わく 大人が大人の立場を保持したまま話をしても、子供は聞かないと思うんですよね。もし話を聞くとしたら、大人が「自分の中の子供」というフィルターを通して話す時じゃないかな。

北出 ありがとうございます、胸に留めておきます。そして、ここまで話してきて改めて思ったんですけど、やっぱり僕が「セカイ系」という言葉に託しているのは、どちらかというと新海さんの言う「アガルタ」みたいな、心象風景的なもののことで。大人になってもそういうものを大切に持っていくことは、すごく大事なことなんじゃないかってことが、一番言っていきたいことだなって。

『天気の子』帆高は異色のセカイ系主人公?

北出 しかし、『天気の子』が盛んに「俺たちのセカイ系が帰ってきた!」みたいに言われていたとき、僕としてはセカイ系って「ここではないどこか」要素が重要だと思っていたから、みんな「決断」要素みたいなものをセカイ系だと思ってるんだなって驚いたんですよね。

ヒグチ 自分も「決断」要素がセカイ系の必須要素だというのは、指摘されて初めて意識したかもしれない。『最終兵器彼女』のように、主人公とヒロインの逃避行という要素が印象的だったからかな……。もちろん、セカイ系の男性主人公は戦闘能力を持たないことが多いので、現実世界のすべてを敵に回して戦うという選択肢が取れず、ヒロインを守ろうとすれば自然と逃避行という形を取るだけなのかもしれないのですが。

わく そういう選択肢はギャルゲーなどのシステム面に支えられていたと思うんですよ。プレイヤーが選択することによって物語が動くし、バッドエンドになれば罪悪感も湧く。でも今は、それらのゲームジャンルは衰退しているので、「少女とセカイのどちらを選ぶのか」みたいな話が今後も作られるのかは疑問です。

北出 でもギャルゲーが衰退したと言われる一方で――個人的には今こそ良い作品がバンバン出ている印象を持っていますが――『Detroit: Become Human』とか、選択肢的な想像力を取り入れた3Dのアクションゲームが世界的にヒットしていたりする。映画だと『アベンジャーズ:エンドゲーム』なんかもゲーム的な想像力を取り入れた話になっていて、「自由意志と決定論」が世界のフィクションで重要なテーマになっているんじゃないかという話は、非アニメ系のポップカルチャー批評においてはよくされている印象がありますね。

ところで、ギャルゲーの話が出たので思い出したんですが、サカウヱさんが注目している「負けヒロイン」の問題、これも可能世界的な想像力と表裏一体だと思うんですよね。「〇〇ルートもあったのでは?(でも、実際は違う)」みたいな。代表格と言われる『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)の美樹さやかは、僕も大好きなキャラクターなんですが、自分なりにその理由を述べれば、(暁美ほむら視点で)何度世界を繰り返しても最善手ならぬ最悪手を選んでしまう、選ばざるを得ない人への共感みたいなところがあって。

サカウヱ 美樹さやかに関して言うと、あの暁美ほむらによる有名な五七五のセリフ、「美樹さやか あなたはどこまで 愚かなの」っていうのがあるじゃないですか(笑)。基本的に愚かなんですよ、美樹さやかの選択って。ただあえてそれを描いた。物語的にきれいに美樹さやかの生き方を描くのではなくて、人間的に美樹さやかという存在に真正面から向き合っているのがすごくいいなと思ったんですよね。それに対して相反する、合理的な考え方を持った佐倉杏子が、最終的には共感を示して一緒に滅ぶという選択をしてくれるのも含めて。「負けヒロイン」だったり「不憫女子」だったりには、SF的というか、あまり一発逆転的な不思議なことが起こってほしくないと思うところがあるんです。なぜかというと、その人の生き方がその力によってガラっと変わってしまう可能性があるから。

北出 なるほど。今話してくださったことって、セカイ系作品が「人間」を描けるのかという問題とつながる気がします。セカイ系作品の主人公って、世界をどうこうするような大きな力を行使するか否かって立場に置かれることが多いわけですよね。そんなものを手にしたときになされる決断って、果たして人間的なものと言えるのか。超越的な、ある種人間ではない「何か」としてその決断をしている感じがあるので。

サカウヱ そういう意味では、負けヒロインや不憫女子はたとえ不思議なことが起こる世界観でも人間らしくあり続けるキャラクターの、ひとつのモデルと言えるかもしれませんね。『あの夏で待ってる』の谷川柑菜は、宇宙人の先輩が出てきたことで凡人感が際立つし、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』のイチゴも、ゼロツーという超人が出てきてしまったから凡人感がさらに際立ってしまう。『まどマギ』だと、美樹さやか鹿目まどかは一見同じような凡人なんだけど、鹿目まどか暁美ほむらのループによって「莫大な因果」を抱えた特別な存在だったということが最後に明らかになる。

で、単に能力を持っていないからいいということではなくて、「持ってないんだけど、頑張る」その姿が重要なんじゃないかと僕は思いますね。物語的に「負けヒロイン」って言い方をされるんだけども、そこに至る過程でそのキャラクター自体がものすごく頑張っていないと、そもそも勝ち負けもつかないわけですから。

北出 応援したくなるようなタイプのキャラクターってことですよね。自分と同一視はできない、でも好き……というこの距離感も、ある種メタ視点に立っているということなのかな。

わく セカイ系の主人公には、「少女か、世界か」ってモノローグでウジウジと悩んでるタイプが多いですよね。初期の新海作品の主人公がまさにそういう感じですけど、そんな主人公に僕は感情移入してしまいます。それに比べて『天気の子』の帆高は、1970年代のロボットアニメの主人公みたいな超熱血路線。あの「絶叫しながら山手線を走る」みたいなの、自分は正直ちょっと笑ってしまった……つまり感情移入できなかったんですが、頑張っている帆高の姿自体には好感が持てる。こういうタイプはセカイ系作品の主人公としては、ちょっと特殊な気がしますね。

まどマギ』『ウテナ』から考える、セカイ系ジェンダー

そこで『まどマギ』とセカイ系の関係を考えてみたいなと。この作品は女の子同士ですけど、最終的に「あなたがいれば世界なんてどうだっていい」みたいな話になっている。こういう作品もはたしてセカイ系と言えるのか。

サカウヱ 主人公と相手役の性別に関しては、全然どういう組み合わせでもいいと思います。ただ『まどマギ』は、まどかの能力が世界に直結していたじゃないですか。それを暁美ほむらがなんとか救おうとするまでがテレビ版で、そこをさらに超えていって実はさらに上の世界にほむらが接続していたというのが『叛逆の物語』の種明かし部分だった。

北出 『まどマギ』って映像的にも箱庭感があって、舞台装置の中でいかにメタを張っていくかみたいなゲームがなされている作品だと思うんですけど。そういう意味では、同じ箱庭感のある映像表現がなされていて、百合的な要素も含んだ作品として『少女革命ウテナ』(以下『ウテナ』)のほうが相対的にセカイ系的と言えると思います。というのも、アンシーが鳳学園を出ていくから。箱庭の中のあれこれ……性別に関係なく、二者関係が基軸にあることはセカイ系にとって重要だと思うんですけど、それが決闘を通じて色んなレベルで解体されて、最大の当事者であるアンシーがその外側……ウテナのいるであろう、「ここではないどこか」を目指して旅立っていく。『まどマギ』、特に『叛逆の物語』はすごく閉じた二者関係の話になっているので、「ここではないどこか」要素を重視するならむしろ「アンチセカイ系」とでも言うべき作品なんじゃないかと思っていますね。

わく なるほど。それを聞いて、韓国映画の『お嬢さん』という作品を思い出しました。日本の植民地だった時代の朝鮮を舞台に、日本人のお金持ちのお嬢さんのところに主人公の朝鮮人の女性がメイドとして仕えるようになる。二人とも最初は様々な違いから相容れないんだけど、実は二人は同じ家父長制の家に縛られているということに気がつく。最終的には、男たちが支配する家父長制の家から、お嬢さんと主人公のメイド、女性二人が抜け出して、船に乗って上海に向かう……という爽快感のある話なんです。こういう作品は、今だと「シスターフッド」みたいな言われ方をすると思うんですけど、いまおっしゃっていたようなところにフォーカスすれば、セカイ系に近いものはあるんじゃないかという気がしてきましたね。家父長制の家を、セカイ系における「セカイ」=限定されたある範囲、と考えると。

ヒグチ セカイ系の構成要素を「彼女を選ぶのか、世界を選ぶのか」という決断の要素と、「ここではないどこか」へ誰かと一緒に行くという要素の2つに分けて語っていくと、体系がクリアになっていくんじゃないかなと思います。

自分は『ウテナ』の延長線上にある現代のアニメジャンルは、やはり百合ものだと思っていて。そこで引き継がれているのは、『ウテナ』で言えば「世界の果て」と呼ばれている、男性が女性をトロフィーのように取り合って、女性をモノ化して扱うという構図の外に出ていくという要素です。『ウテナ』とよく比較される最近の作品に『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』がありますが、そこでは男性そのものは出てこない代わりに、男性的な役割は「キリン」が担っていますね。キリンは、女性たちが戦ってるのを舞台の外から眺めて、いろんな仕掛けを投入して意図的に盛り上げていく。

北出 ヒグチさんは、男性が『ウテナ』とか『レヴュースタァライト』とかを観る際に、自分自身が「世界の果て」や「キリン」である可能性を踏まえないのは、自己欺瞞的だと考えられているということですか?

ヒグチ そこは、作品世界に出てくる女性が、全員「女性」とは限らないですよ。「男性的」というのは「パターナリズム(父権的)」と言い換えてもいいですけど、そういう強権を振るう立場にいる女性も現実には存在します。それに我々だって、男性の身体を持っているからといって、100%「男性的」な精神や性質で生きているわけではないじゃないですか。男性の中にも「女性的」な部分はあるし、もっと言えば、その「女性的」な部分を拾い上げてくれるからこそ、女性キャラクターの物語を観て、男性である我々も感銘を受けることができるわけで。

まどマギ』の「魔法少女」も、たとえば新入社員の表象として見ることができると思うんです。新人の時は業界に希望や展望を持っていたが、今では当時の自分を忘れて新人いびりをしている……みたいな人って、かつて魔法少女だった魔女に似ていませんか。「女性 vs 男性中心社会」ではなく「希望を持った個人 vs 個人を搾取して回る社会システム」という枠組みを、男女ともに身近な「魔法少女」を通して描いたことで、広く共感を集める作品になったんだと思います。

セカイ系と親和性の高い、SFやファンタジーといったフィクションは、作品設定を使い、視聴者が男性か女性か、キャラクターが男性か女性か、作者が男性か女性か、といった垣根を超えて訴求する力があります。そういう力をもっと信じても良いんじゃないかなと。

北出 なるほど。個人的には先ほども言ったように、フィクション全般の力を解放する言葉として「セカイ系」を捉え直せないかという考えがあったんです。しかしいまヒグチさんがおっしゃってくださったように、「今、ここ」にある「社会」や「現実」を読み替えるフィクションの力というものもある。「ここではないどこか」を志向するセカイ系は、フィクションの可能性の一部であっても、その全体ではないということを、いまのやり取りを通じて改めて整理できた気がします。

まとめと展望

北出 そろそろまとめに入っていきましょう。セカイ系~日常系~感傷マゾのグラデーションを探っていく中で、特に浮かび上がってきたキーワードは2つあって、「メタ視点」と「ここではないどこか=異界」というものだったと思います。

わく 観客(視聴者、読者)が舞台(作品世界)に対してどういった視線を持っているのか、もしくはどういう距離感を持っているのかということが、その三つの分野をグラデーションとして語るときには使いやすい指針なのかなと思いました。観客から見た舞台というのはある種の異界だし、感傷マゾだったら「自分の不毛な日常生活とは違う青春」が異界になる。

その意味で、自分は今VRが気になっていて。『狼と香辛料』のVRアプリがすごく好きなんですけど、ヘッドマウントディスプレイを被ると僕自身が『狼と香辛料』の主人公・ロレンスの視点になるんです。VRの世界では僕の隣にヒロインのホロがいて、メタ視点を持たなければ「俺、実はロレンスなんじゃね?」と考えることもできるという。VRという技術を抜きにしても、VTuberであったり「バ美肉」であったり、ああいった事例が重要なのではないかと思っていて。自分自身が観客ではなく、舞台に出るようになる。そういう状況が当たり前になったときにどういう物語が求められていくのか。もしくは物語自体が求められずに、VRチャットでバ美肉おじさん同士が話してるとか、そっちのほうに集約されてしまうのか。僕はやっぱり物語が好きだから、そういう状況であったとしても求められる物語があると思いたい。三つの分野のグラデーションを考えることを通じて、これから来るVR時代にどんな物語があり得るのか考えてみたいと思いました。

ヒグチ VR映画というのもありますよね。自分が印象に残ってるのは5分くらいの短編で、車の中の視点でその車を使っている親子がどういう時間を過ごしてるのかを追っていくという話なんです*5。ネタバレになっちゃうんですが、お母さんが亡くなってるんですね。その亡くなったお母さんの視点で娘と旦那さんがどういう風に暮らしていくのかというのを点描的に追っていくという、まさに自分がお母さんの幽霊になったように感じられるという仕掛けになっている。これにはすごく感動したんですよね。

わく VRを絡めれば自分自身が「死者の目」そのものとして日常系アニメの中に存在できたりするわけで、既存のジャンルを拡張するという意味でも面白くなりそうですよね。

サカウヱ セカイ系について社会というものを絡めながら話すことができたのは、僕らの年齢的にも、昨今の世の中的なことも込みでいいタイミングだったんじゃないかなと。その上で個人的には、北出さんにセカイ系という単語の内容自体をアップデートしてもらうか、セカイ系として語られていた内容を別のステージにもっていってくれるような新しいフレーズを生み出してくれないかという期待を勝手にしています(笑)。

北出 頑張ります……! あえて『シン・エヴァ』公開前に収録した座談会でしたが、このタイミングだからこそできた話がたくさんあったと思います。本当に長時間、お疲れさまでした。ありがとうございました!

一同 お疲れさまでした!

(2021年1月、Google Meetにて収録)

*1:ヒグチ氏のブログ「あにめマブタ」に掲載の記事「日常系とはなにか ~死者の目・生を相対化するまなざし~」
https://yokoline.hatenablog.com/entry/2017/06/03/133012

*2:わく氏のBoothページからバックナンバーが購入可能。
https://wak.booth.pm/

*3:業界著名人がアニメ作品をオススメ! クリエイターズ・セレクション vol.10 監督:佐藤順一インタビュー(バンダイチャンネルhttps://www.b-ch.com/contents/feat_creators_selection/backnumber/v10/p02.html

*4:わく氏のnoteに全文が転載されている。
https://note.com/kansyo_maso/n/n365a0a449a89

*5:YouTubeでも映像が公開されている。「360 Google Spotlight Stories: Pearl」
https://www.youtube.com/watch?v=WqCH4DNQBUA

インターネット・空気・コミュニケーション――ネット世代の表現者が見つめる〈セカイ系〉のポテンシャル(布施琳太郎×~離×北出栞)

北出栞と申します。〈セカイ系〉という言葉・概念にどうしても惹かれるものがあり、2021年秋に『ferne』という評論系の同人誌を個人制作しました。

制作の詳しい動機は本誌の前書きに譲りたいのですが、基本的な方向性としていわゆる「2次元」のキャラクターを中心とする「君と僕」の恋愛物語といった形式性に囚われない、〈セカイ系〉という響き自体に宿る質感のようなものを取り出したいという思いがあります。そのためにはおそらく、論評の対象を形式的なものとして(ひとまずは)切り取る批評の言葉よりも、「世界」との距離を探りながら作品という形に結実させていく、実作者の感覚の中にヒントがあるだろうと、制作中から感じていました。

そうした経緯から某日、現代美術領域でアーティストとして活動する布施琳太郎さんと、ミュージシャンの~離さんを招いて座談会を企画しました。批評や詩作など文筆も手がける布施さんは新海誠をはじめとした〈セカイ系〉作品への言及が随所であり(『ferne』にも素晴らしい寄稿をいただいています)、~離さんはボーカロイドを用いたEP『新世界空気系』を自身のレーベル・i75xsc3eの第一弾作品として2021年にリリース、「他者の存在を要請するセカイ系からの脱出。物語を放棄した個人は、原子となって空気系に取り憑く。」という概要文には〈セカイ系〉に対する独特の眼差しが感じられます。

それぞれに注目していたお二人は、布施さんが今年発表した映像作品《イヴの肉屋》に~離さんが楽曲・ナレーションで参加するという形で交錯。本座談会はちょうどその展示の前後に収録されたものです。お二人の作品や活動を読み解く上でも、また〈セカイ系〉の持つポテンシャルを広げる上でも非常に貴重な場になりました。ぜひお楽しみください!

布施琳太郎《イヴの肉屋》(2021)の一コマ。(撮影:北出)

セカイ系と「インターネット」

北出 本日はよろしくお願いします。まずはお二人のざっくりとした〈セカイ系〉観、遍歴といったものからお伺いできればと思います。布施さんいかがでしょうか。

布施 『ferne』に寄稿した文章にも書いたんですけど、小4のときに新海誠の『雲のむこう、約束の場所』という作品をたまたま観る機会があって、それが〈セカイ系〉と呼ばれる作品に触れた最初の体験だったと記憶しています。この作品を忘れたくない、ずっと憶えていたいという気持ちに初めて自発的に思えた作品が『雲のむこう』だったんです。

そのあと中学生になって読む本なども自分で選ぶようになったときに、小説だと村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『海辺のカフカ』、アニメだと『新世紀エヴァンゲリオン』などに触れていく中で、自分の好きになる作品の傾向が大体わかってきて。そういうものをもっとたくさん観たいと思ったときに、どうやら〈セカイ系〉という言葉の下に紹介されている作品を辿っていくと、自分の趣味に合った作品に出会えるらしいと気づいたのが、僕にとっての〈セカイ系〉との出会いでした。

アニメにせよ小説にせよ、物語というものはいずれ終わってしまうわけですけど、終わってほしくないときにジャンルみたいなものが切ない気持ちを救ってくれる。僕にとっての〈セカイ系〉という言葉は、そんな感覚をもたらしてくれるものだったんです。

北出 「〈セカイ系〉と呼ばれているらしいと知った」というのは、作品名をGoogleに打ち込んでみたとか、そういう感じでしょうか。

布施 そうですね。というか、シンプルにウィキペディアとかだったと思います。あのページに影響された人はすごく多いんじゃないでしょうか。~離さんもたぶん読んだことがあるんじゃないかと思うんですけど。

北出 ページを見てみると、やたら東浩紀さんの本とかから引用されていたり。具体的な作品名は……そんなに羅列されているわけではないですね。

布施 あまり当時と変わっていない気がしますね。『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』、あと『エヴァ』があって、プラスちょっと『ブギーポップ』シリーズの話があるとか、そんな感じですね。

北出 ありがとうございます。~離さんはどうでしょう。

~離 自分の場合は、アニメを観始めたのがここ3年くらいで。

北出 へえ!

~離 2001年生まれで、そもそも『エヴァ』が一度終わってから生まれているので。肌感覚としてもアニメの歴史的な系譜というものをあまり感じずに育っています。最初にアニメを観始めたのも、「ツイッターでなんとなく気が合う人がだいたいアニメを観てるから、自分もアニメというものを観てみよう」みたいな感じで始まっていて。それで最初に観たのが『エヴァ』だったんです。

で、『エヴァ』についてツイッターでフォローしている人が語る際に〈セカイ系〉という言葉が使われていると。そこからセカイ系ってなんだろうと思って、それこそウィキペディアとかを見てなんとなく内容を知っていった形です。

そこから「この作品は〈セカイ系〉なのか?」とか、「〈セカイ系〉から影響を受けているのか?」とかっていうのを考えながら観るような視点が少しずつ育っていって、最近の作品で一番食らったのが『天気の子』でした。『天気の子』が〈セカイ系〉かどうかは議論の余地がありますが......。今でもサントラを毎日聴いて泣いています。

布施 〈セカイ系〉って、キャラクターや設定、ストーリーについて語られることはよくある一方で、音楽的なところで語られることってあまりない印象が僕自身はあるんですけど。~離さんは、『天気の子』の音楽そのものにキャラクターや物語とは違うところで惹かれる部分があったんですか?

~離 音楽そのものですね。アニメーション作品のサントラをよく聴くのですが、より〈セカイ系〉的な雰囲気をまとった音楽だからこそ惹かれるというよりも、純粋に音楽としていいなって感じです。

北出 むしろ~離さんぐらいの世代では、アニメを観ること自体はすごく一般化してきたところがあると思うんです。そういう中で『エヴァ』に出会うまでアニメを観ずに過ごせたというのは……なんというか、運がいいですね(笑)。

~離 いえ! こんなに面白いものならもっと早くから観ていればよかったという気持ちでいっぱいです(笑)。インターネットを始める以前は、家庭や学校の友達とかにそういう文化圏の人が全然いなかったんです。アニメというものに対して偏見というか情報がない状態でいきなり『エヴァ』を観たので、アニメ鑑賞体験の礎になってしまったというか、後に見たアニメ作品もどうしても無意識に『エヴァ』と対比してしまうような、そういう基準ができてしまった部分はあるかもしれないですね。

北出 お二人の話を重ね合わせると、インターネットを経由して作品と作品を結びつけるものとして、〈セカイ系〉というワードが遍在しているってことですよね。そうなったときに、〈セカイ系〉とはそもそもは揶揄的な言葉だったみたいな話とかもウィキに書いてあったりするわけですけど、自分が好きなものがそういう風に論じられてるんだと知ってギャップが生じたりとか、ちょっとこれは違うんじゃないか、という風には思いませんでしたか。

布施 自分の大切なものが傷つけられているとか、虐げられてるっていう風には思わなかったですね。そもそも〈セカイ系〉という言葉を知った時点では、「本を読んで批評を摂取する」という仕組みを単純に知らなかったので。〈セカイ系〉という言葉の下に、『エヴァ』と村上春樹新海誠が並べられていることを、当時の自分は創造的な行為として捉えられていなくて。ですが宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』を高校生のときに読んだ際に、そこで「決断主義」とか言って、『ジョジョの奇妙な冒険』とか『DEATH NOTE』とか、複数の作品を紐付けて、一個の言葉で説明するみたいな態度に衝撃を受けた。それはやっぱり書籍という形だったからで、ネットを通じて触れているときは、〈セカイ系〉みたいな言葉と作品が繋がってることに対して、何か自発的な感想を持つまでは行けなかったなというのが正直なところです。

北出 なるほど。インターネット発の言葉だからこそ書籍という物理媒体に議論が集約されていることに意義があるというのは、編集者としては身に染みる話です。

セカイ系〉と「空気」

北出 ~離さんは『新世界空気系』というEPを出されていて。このタイトルは〈セカイ系〉の後に空気系があるという、ある種の批評的なストーリーもご存知の上でつけたんだと思うんですけど。

~離 批評の歴史は隠し味程度の意識でタイトルを付けました。でも確かにあのタイトルは、一種の〈セカイ系〉に対するアンチテーゼではあります。個人的には〈セカイ系〉よりも〈空気系〉と呼ばれている作品で行われていることにすごく関心があるというか、共感できて。いわゆる「君と僕」という関係性がセカイ系の中ではあるじゃないですか。まず作品があって、批評の中で立ち上がってきたような定義だと思うんですけど、個人的にそういう関係性を描くことにしっくりこない気持ちがあります。自分が作品を作る側になったときには、そうではないものを作りたいと思っていました。

北出 確かに~離さんのコンセプト文にも書いてある通り、〈セカイ系〉は他者を必ず必要とするジャンルだという言い方もできると思います。布施さん的には、〈セカイ系〉の「君と僕」的な要素についてはどう捉えているんでしょう? ご自身の作品の中でもコミュニケーションの問題だったり、インターネット上における個人とか孤独とかそういったものをテーマにされていると思うので、振り返ってみて現在の自分の作風と〈セカイ系〉における他者性みたいな要素と、重なるところが取り出せるのかなと思って。

布施 直接の答えにはならないかもですが、自分は絵を描くこともあって、〈セカイ系〉を「距離」の話として解釈しているんです。「君と僕と社会」とかも同じ話だと自分は思うんですけど、絵画の画面というものは近くにあるものと遠くにあるものの距離を比較する形で構成される。だからこそ、近くにあるということと遠くにあるということの距離が何らかの仕方で壊れてしまっているような状況が表れている想像力……〈セカイ系〉に特別なものを感じるんです。

そして、僕が批評に初めて触れたときの経験も、ある意味〈セカイ系〉だったんだろうなと思います。いわゆるポストモダン以降の人間と言っていいのかもしれないですけど、目の前にある作品と、すごく遠くにある概念や歴史といったものを紐づけることができてしまう……〈セカイ系〉をはじめとした想像力を担保するものとして、今生きている僕たちはそういう能力を持っているように思っていて。目の前にあるものと遠くにあるものをパラフレーズしたり、距離やスケールを様々に入れ替えてしまうということ自体を象徴するのが、〈セカイ系〉という概念が潜在的に持っている力なのかなと。だからこそ『エヴァ』や新海誠は、東浩紀をはじめとしたポストモダン時代の批評家の人たちに言葉を紡がせ続けてしまったんじゃないか。

まとめると、距離を破綻させて、本来隣り合うはずのない様々なフレーズやスケールをつなげてしまう想像力として〈セカイ系〉というものを自分は受け止めています。

北出 〈セカイ系〉がある時代を象徴する批評の対象というより、むしろ〈セカイ系〉という概念自体が批評という概念とニアリーイコールであるということですよね。~離さんは今の話を聞いていかがでしょう。空気って身の回りを取り巻いているものですが、~離さんが空気系にのシンパシーを感じるのって、あらゆるものに対する距離がゼロになってしまったという感覚が、ご自身のリアリティとしてあるということなのかなと思ったんですけど。

~離 まず、自分が今のお話を聞いて思うのは、やっぱりインターネットのことなんですよね。私たちの目の前に今あるものって、パソコンとディスプレイじゃないですか。それらはすごく自分との距離が近いわけですよ。でもその中で見てる情報って、かなり遠いものも含まれる。自分は今帰省して新潟にいるんですけど、布施さんや北出さんはおそらく東京にいて。300キロの距離が離れているけれども、でもこのインターネットの場においては、その距離がゼロになっている。

アニメを観始めたきっかけがそもそもインターネットの人たちだったという話もそうですが、自分はインターネットを使うことが完全に日常的な動作になっていて。身体の一部といっても過言ではないかもしれません。遠いものと近いものの距離がゼロになるということがもはやネイティブというか、特別意識することもなく生活しています。

だから〈セカイ系〉において行われている距離を扱うことというのがあまり見えてこないというか、意識上にまで表れてこない部分があるかもしれないです。そんな中では自分にとってのゼロ距離、空気のようにすごく距離が近いものの変化のほうが意識的に捉えられる。

北出 そういう意味での〈空気系〉というか、そこでイメージされている「空気」を感じさせる作品って、具体的にはどういうものなんでしょうか。

~離 一番印象的だった作品は『〈物語〉シリーズ』です。原作は読んでいないので、原作のほうではもしかしたらまた全然違った印象かもしれないですけど。一応、阿良々木くんが怪異と出会って何やかんやありますが、結局そこで行われてることって会話劇じゃないですか。作品の語り方としては阿良々木くんの存在感が大きいわけですけど、でも舞台の直江津町は全国的に知られた町とは決して描写されていないし、阿良々木くんだって怪異と出会わなければ正義感が強すぎるだけの普通の高校生なわけなんですよ。

つまり、怪異と出会ったから物語が発生しているのであり、『〈物語〉シリーズ』において私たちが本当に見ているものは物語ではなく、阿良々木くんたちが行っている会話とか、新房監督や尾石達也さんによる視覚的な演出とかが醸し出す空気感のようなものなのではないかと。〈セカイ系〉作品にあまり共感できない中で、自分が捉えやすいものについて考えようと思ったときに、空気というものに関心が出てきたんです。

北出 なるほど。今の話を聞いて布施さんはどうですか。距離というものが消失してしまった中で、別の形で距離を作ることができないかということを常に思考して作品や活動に落とし込んでいると感じるんですが。

布施 〈セカイ系〉自体が持っている距離の問題みたいなものがありつつ、~離さんにとってセカイ系作品が実際に作られていた時代とご自身との間に距離があるという話でもあるなと思って訊かせていただきました。

改めて僕の話をすると、〈セカイ系〉がジャンルとして終わったとは、中学生のときには思っていなかった。でも、普通の話になっちゃうんですけど……高校1年生のときに東日本大震災があって。〈セカイ系〉の作品やSF小説を読んでいたので、「これで何か世界のルールが変わるんだ」と思ったんです。でも震災が起きてから1ヶ月、2ヶ月と経っていったときに、神奈川に住んでいた自分にとっては、意外なほどに「何も変わらない」という感覚が残ったんですよね。帰れなくなった高校のパソコン室で見た津波の映像とか、そういう視覚的なイメージの強さがもたらした衝撃は覚えています。それは、僕の手に負えないような仕方で、それまで当たり前だと思っていた生活とか社会のシステムみたいなものを変化させるんじゃないかと予感させたけど、少なくとも関東に住む高校生の自分にとっては、決定的な変化が起きたと感じられることがなくて。崩壊とかカタストロフのイメージというものと、現実の社会システムというものの間には物凄い乖離があるということを学ばされてしまった感覚があった。

僕は高校生くらいまで、自分は絶対にアニメやゲームを作ることを仕事にするんだって思っていたんですよ。でも、そういうこともあって、積極的に観たいと思うアニメも全然なくなって。その後、いわゆる美術の方面に行ったわけですが、「作品を作る」ということに対して自分が関心を持ち直せた理由は何なのか考えたときに、今となって思うのは、美術というものが、歴史に対するアプローチであることを自明としているからだなと。人間の身体が耐えられる時間の長さというのはせいぜい100年とかなわけですけど、歴史を前提にするってことは、100年とかのスケールで考えないということで。1000年とか数万年とか前のことと、ごく最近起きたことというのを、ひとつの問題系として捉える思考を許してくれるのが美術という感じがしたんだと思います。

北出 2011年を境に起きたことって、布施さんの言葉を借りると、スケールという概念自体が壊れたということなんだと思うんです。現地で家が流されていくといったイメージが手元のスマートフォンを通じてとても近い距離で感じられる一方で、自分自身の身の回りでは全然被害がない、という体験があった。SNS的な平面が唯一の「現実」を構成するようになってしまった中で、果たしてフィクションはどのような価値を持ちうるのかということを個人的にもずっと考えているんですが、美術という方法論でなら千年とか万年とかいったスケールを持ってこれるという発想は、ポップカルチャーの範囲でうろうろしていた自分にはなかったので目から鱗でした。

あと、観たいと思えるアニメが震災以降あまりなかったという話に関しては、アニメ視聴というカルチャー自体に質的な変化が起こったのもあると思っていて。震災をきっかけとしたSNSの普及と同調するようにして、アニメがリアルイベントを盛り込むといった形が定番化した。コロナ禍を経てまた少し変わるのかなと思いますけど、画一的な「現場感」を重視するような流れがあったんですよね。そう考えたときに、~離さんが『化物語』などに感じた「空気」と「現場感」との違いは何かという問いは考える余地があるし、もし異なるとして、そういう「空気」が今どこでどのように感じられるのかというのも興味深いポイントだなと思いました。

セカイ系〉と「コミュニケーション」

北出 ここで改めて~離さんの物作りのモチベーションというか、そもそも音楽を始められたきっかけをお伺いしてみたいです。

~離 最初に音楽を作ったときの記憶は全然ないんですよね。何か1曲を完成させて、最初の反響を観察しようってことが、モチベーションとしてあったわけじゃなくて。ソフトを触って、シーケンス的に部分を作るということを繰り返していたときに、これを曲と呼んでみようかという感じだったので、ぬるっと入ったというか。楽器も全然できないですしね。

そもそも自分の場合は、あまり音楽に対して特別な思い入れがないというか。それよりは制作を通して自分の考えていることを整理したり、考えていることをどのように作品に反映させるか実験したりといった作業に関心があるんですよね。普段考えていることとか、社会に対して思ってることを、自分の心の中からアウトプットする形としてたまたま音楽があったという感じなんです。育つ過程とか環境が違ったら別の手段をとっていたかもしれない、というのはちょっと思います。

北出 なるほど。ちなみに楽器も弾かないということは、やっぱりサンプリング的に素材を拾ってきて、加工して貼り合わせて作っていくという感じなんでしょうか。

~離 サンプリングは基本的にはしません。シンセサイザーをピロピロ弾いて、この音とかこのフレーズは気持ちいいな、と思ったら使っていく感じですね。

北出 メロディやコードを弾くわけではないけど、音を出す装置としてのシンセは使っているってことですね。初音ミクを使おうと思ったのは?

~離 初音ミクに関してはあくまで「言葉を付与することができるシンセサイザー」として使い始めました。考えていることを表現するという点で、言葉を使うというのはやっぱりやりたいなと思っていて。最初は自分で言葉を喋るというかラップをするみたいなことをやっていたんですけど、純粋にラップが下手すぎるというか、自分では歌いたくないなと思ったので、初音ミクだったらシンセサイザーとして気持ちのいい音が鳴るし、しかも言葉を乗せられるなんて画期的じゃん、と。

自分で書いた歌詞を自分で歌うなると、声に出して話さなきゃいけないわけで。たとえばヒップホップみたいな「リアルさ」というものが評価されるような場所においてはすごく重要だとは思いますが、自分は別にそうしたくはないというか。自分の考えている言葉が、自分の肉体を通して発せられる必要がない……つまり、自分の思考を自分の身体から切り離して存在させたい欲求があります。

やっぱり声って身体の一部じゃないですか。声帯を震わせて、人それぞれ独特の声が出る。ボカロを使って制作している人たちは、自分のやりたいこととか表現したい世界というものを、自分の体ではなく、ミクという身体を借りることで自分からの距離を取りながら表現することができるわけで、この点はそれぞれの事情にとっても都合がいいんだろうなと思います。

布施 初音ミクを使うというのは、自分から距離を取るということであって、自分が別の身体を手に入れるという感覚ではないんですか?

~離 そうですね。あくまで自分とは切り離された、自分ではない身体という感覚です。

布施 なるほど。だとするとVTuberとかもあくまで自分の身体から距離をとっているのであって、別の身体の獲得自体が目的じゃない可能性があるのかもしれないですね。

~離 VTuberって初音ミクの後に出てきたわけですけど、初音ミクの捉え方というか付き合い方が、逆にVTuberの出現によって変わったということも、ひょっとしたらあるかもしれないですね。

北出 僕は~離さんとは世代的にひと回り違っていて、この三人は布施さんを間に挟んで、ちょうど6歳ずつ離れてるみたいな感じだと思うんですけど。自分の体験として2007年ショックというか、YouTubeニコニコ動画初音ミクも一度に登場したときのことはよく覚えていて。当時大量に違法アップロードされていた深夜アニメやMAD動画と一緒に、初音ミクは盛り上がってきた。要はキャラクターコンテンツとしてってことなんですけど、個人的には〜離さんの言ったような楽器としての可能性に未来を感じていたんです。

ところがいま人気を博している『プロジェクトセカイ』の3Dライブなどを見ると、VTuberと同じような3Dモデリングモーションキャプチャーを使った、キャラクターがヌルヌル動く感じになっていて。距離感はむしろないというか、すごく素朴な意味でキャラクターとして愛される……アイドルとかと近くて、結局はそこに収斂していくんだなと残念に思ったりはするんですよね。

布施さんにこの流れでお訊きしたいのは、東浩紀さんやその周辺がひと頃熱心に論じてもいた、いわゆる「キャラクターアート」の流れについてです。布施さんはインターネット的なものに対するリサーチもしつつ、そういったものとは距離がある作風なのが、ある意味では独特だとも思っていて。布施さん的にはキャラクターという主題ですとか、コミュニケーションにおける人体やアバターの存在って、どういう風に捉えているんでしょうか。

布施 いわゆるアートにおけるキャラクターの話と、コミュニケーションにおけるキャラクターの話とがあると思うんですけど。前者については、まず村上隆というアーティストが、いかにして絵画の問題にキャラクターを落とし込むかというのをやりました。絵画史の中にキャラクターをどう位置づけるかを考えるために、近世以前の日本の絵画とアニメーションの画面構成を比較したりした。それに対して梅沢和木がやったことはまた全然違っていました。男性オタクがキャラクターにどうやって欲望しているのかという構造自体を、インターネットのアーキテクチャを含めて絵画化するという、エクストリームなことをやっていて興味深い。

しかしこうして図式化したときに違和感があるのは、キャラクターを取り巻く欲望を絵画の問題として扱うことが、消費者の代表に過ぎないようにも思えることです。あまり社会的な広がりを持ち得ていないのでは、と。

梅沢和木の達成について述べるなら、それは欲望の眼差しを成り立たせる情報環境のアーキテクチャを絵画化することに一定の水準を超えたところで成功したことです。ただ、アートが絵画にこだわる必要はないだろうとも思うんです。もっと音響的にオタクの欲望を再現するとかもあっていいと思うし、あるいはピクシブニコニコ動画に代わる全く別のプラットフォームを作るとか、いろいろな形での介入があり得るはずです。

もう一方の、コミュニケーションにおけるキャラクターという話については、キャラクターの造形に対してそんなに強い関心を払っていると思えない押見修造の作品とかにこそ自分は注目すべきだと思うんですよね。物語ということについて、コマ割りというシステムだったりだとか、連載漫画という形式の中でしかできないようなことをやっているので。これは新海誠もそうなんですよ。キャラクター造形自体がアニメ・マンガ的な、わかりやすく記号化されたものではないからこそ、物語が逆に複雑化している。

今の時代、人格はいくらでも分裂させることができて、複数持つことは当たり前だという感覚をみんなが持っていて……そういう感覚を物語の水準で体現している作品が、キャラクターの造形的にはむしろ保守的だったりすることは、面白いと思って見ていますね。

北出 VTuberまでいかなくても、いまはSNSアカウントというある種のアバターを誰もが持っていますからね。その同一性を保つことにみんなが雁字搦めになっているような時代なわけですけど、人間って本来状況とか、誰と喋ってるかによっても全然違う語り方をするものだし、前後の文脈とかも当然あるはずで。いまの話がキャラクターよりも「語り」を発生させるシステムに目を向けることが重要なんじゃないかみたいな話だとすれば、自分も腑に落ちるところがあります。

そう考えると~離さんが真っ白のグループチャットを運営している話にもつながるのかなと思うんですが、あれはどういう意図のもとやり始めたんでしょうか?

~離 現状として、発言の内容とか、ツイートした内容とか、「誰が言っているか」に引っ張られすぎているということがあると思います。すごく普遍的な話ですけど、「この人が言ったならこの話は正しいだろう」とか、「この人はあまり人気がないから言ってる情報も役に立たないだろう」とかいった判断がある。それが個人的にはすごくもったいないというか、情報自体に目を向けてないじゃん、と思っていて。だから、オープンチャットには、発言とか情報とかを、その発信者から解放しようという思惑がありますね。

北出 なるほど。運営されているレーベルもそんな感じですよね。読み方も……何と読めばいいのかわからないんですが。

~離 あれは正式な読み方以前に、名前は「ない」ことになっています。「i75xsc3e」はそれを認識するために便宜上与えられた文字列にすぎません。

音楽レーベルや音楽イベントには一般に、コミュニティを作る機能があると思うんですね。レーベルやイベントに、プレイする人も、ファンというか、消費する側の人も集まってコミュニティが形成される。それが楽しかったり、孤独が紛れたりする人も大勢いるでしょうし、大事なことだとは思いますが。ただそこにおいては、作品やイベント体験がそれ自体として受容されてないんじゃないかという風にもちょっと思って。それで作品とか体験を、コミュニティから解放するようなことをしたいなと。

多分シンボルがあるから人が集まってきやすいと思うんです。レーベルやコミュニティの活動を簡潔に表せて、しかもそれを他者へ容易く伝達できますから。だから自分のレーベルではそれとは逆に、名前やロゴといったシンボルを排除することによって集まりにくくしている。そうすることによって、作品を出すというレーベルとしての機能は備えつつも、コミュニティが作り出されることを阻害したいという目論見があります。

そして、作品なり発言なり、そういった情報を個々の人間とか、それぞれのコミュニティから解放したいという、その点でオープンチャットとレーベルはつながっていますね。だからオープンチャットはレーベルからのリリースという扱いになっています。

布施 僕なりの解釈を言わせてもらうと、~離さんが初音ミクという、自分自身の声ではないものを使うことによって書かれた言葉と自分自身との間の距離を取り戻したのとは逆に、作られた作品がひとつのコミュニティの中にあったとき、自分と同じ曲を聴いている他者たちとの境界線が失われてしまう。他者との境界が失われる悦びに陶酔したいから、人はコミュニティを作るんだと思うんです。だけど、~離さんの活動を通じて感じるのは、単に境界を失うために音楽を聴いたり、コミュニケーションをするということではない。自分はそこにひとつの距離が生まれているように感じられて、それに心地よさを感じたから、そういう気持ちを大切にしたいと改めて思ったというか。

なんでこんなことを言うのかというと、僕もTwitterとかのアカウントを介したコミュニケーション、そこで扱われる言葉というのはまさに~離さんが言うように、情報そのものではなくて、その人の言う発言や世界観というものに共感できるかできないか、ということだけでなされているように思うんですね。言い換えると、「自分とこの人の間の距離を失ってたとしても大丈夫な人間かどうか」というのがコミュニケーションの基準になっている。ではそうじゃないコミュニケーションって何だろうと考えたときに、距離を失うということ自体に邁進していく社会の中で、ギリギリで距離を保つために、作品というものを使うことができるんじゃないか、そういう実践が~離さんの活動なんじゃないかなと思ったんです。そういう距離がある世界からしか、〈セカイ系〉的な想像力みたいなものも多分始まらないわけで、僕や北出さんが~離さんに興味を持ってしまう理由もそこにあるのかなと。変にまとめみたいなこと言っちゃいましたが(笑)。

~離 いえ、すごい腑に落ちました。自分が初音ミクを使うことと、レーベルを運営することがつながっているとは自分では気づかなかったので。

音楽を作る人が次どういうものを作るか考えるときに、ある有名なレーベルから出したいから、そこに向けた曲を作るみたいなことが結構あるんですよ。周りのトラックメイカーの友達と話しても、「あそこのレーベルっぽいものを作れるように頑張ろう」みたいなことを言うので。でもそれってもったいないというか、自分は何か人が物を作るとき、その人のあくまで個人的な思いというか考えが100%純粋な形で出ているものが美しいと思っています。

レーベルに認められたいとか、そういう社会的な動機によって作られた作品って、あまり美しいと思えない。自分の好きなクリエイターに、余計な雑念を入れずに作品を作ってもらうにはどうすればいいかみたいな気持ちでi75xsc3eをやっていますし、それは確かに「距離」の問題として、自分が初音ミクを使うことと一緒に考えられるかもしれないなと。

布施 なるほど。これ、以前自分が書いた「新しい孤独」って文章に僕の中ではつながるんですけども、この話をすると~離さんを自分の文脈に巻き取りすぎてしまうなと思ってしまって……どうしようかな。

北出 それは自分もすごくお聞きしたいのですが、布施さんは今日外からつないでくださってるんですよね?(編註:布施さんは当日、急遽決まったトークイベントに出演していた)。電車の時間もありますし、今日はここまでにしておきましょう。また改めて機会を設けられたら嬉しく思います。本日はありがとうございました!

布施琳太郎 プロフィール

1994年、東京生まれ。アーティスト。恋愛における沈黙、情報技術や詩によってアナグラム化された世界、そして洞窟壁画において変質する形態についての思考に基づいて、iPhone発売以降の都市で可能な「新しい孤独」を実践。絵画やテキストによる描写、展覧会や映像の編集などを、アーティスト、詩人、デザイナー、研究者、音楽家、批評家、匿名の人々などと協働して行っている。主な個展に「すべて最初のラブソング」(2021/東京・The 5th Floor)、「イヴの肉屋」(2022/東京・SNOW Contemporary)、参加企画展に「ニュー・フラットランド」(2021/東京・NTTインターコミュニケーションセンター[ICC])、「新しい成長の提起」(2021/東京藝術大学美術館)、「身体イメージの創造――感染症時代に考える伝承・医療・アート」(2022/大阪大学総合学術博物館)、キュレーターとしての展覧会企画に「iphone mural(iPhoneの洞窟壁画)」(2016/東京・BLOCK HOUSE)、「新しい孤独」(2017/東京・コ本や)、「ソラリスの酒場」(2018/横浜・The Cave・Bar333)、「The Walking Eye」(2019/横浜赤レンガ倉庫一号館)、「隔離式濃厚接触室」(2020/ウェブページ)、「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地[クリエイティブセンター大阪])、「惑星ザムザ」(2022/東京・小高製本工業跡地)などがある。

公式サイト: https://rintarofuse.com/

~離 プロフィール

2001年生まれ。新潟県出身。

https://twitter.com/riyuuuyu

 

いま「セカイ系」物語を書くということ――岬 鷺宮さんインタビュー(初出:セカイ系同人誌『ferne』)

このインタビューは、筆者である私、北出栞が2021年秋に自費出版した書籍「セカイ系同人誌『ferne』」に収録されたものです(書籍の通販ページはこちら)。取材のきっかけとなったライトノベル『日和ちゃんのお願いは絶対』が2022年3月10日に発売の5巻をもって完結することから、著者の岬鷺宮さんのご了承を得た上で転載します。ぜひ作品と併読する形でお楽しみいただければ幸いです。(『ferne』責任編集・北出栞)

※転載にあたって、Web上で読みやすくなるよう一部改行位置などを整えています。また、書籍刊行時に見られた脱字・統一表記の揺れなども修正しております(内容面の異同はございません)。

 

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『日和ちゃんのお願いは絶対』5巻・挿絵イラスト

 

「――まるで、世界が終わりたがっているみたい。/岬鷺宮が描く『セカイ系恋物語」。2020年に第1巻が刊行されたライトノベル『日和ちゃんのお願いは絶対』(電撃文庫刊)の帯に書かれた一文だ。いまこの時代にあえて「セカイ系」を打ち出し、著者もTwitterでそれを積極的に発信している。あまりに純粋なその姿勢に衝撃を受けると同時に、密かに頼もしさと連帯感を覚えていた。

その著者・岬鷺宮さんに今回コンタクトを取ることに成功。本誌の主旨を伝えたところ深く共感をいただき、インタビューの了承も快くいただくことができた。

岬さんは2013年に『失恋探偵ももせ』(同上)でデビュー。その後も男女問わず支持の高い丁寧な心理描写を武器に、ライトノベル作家として「学園もの」を中心に作品を発表してきた。中でも2018年に刊行を開始し、次巻(2021年8月現在)で完結を迎える『三角の距離は限りないゼロ』(同上)は、「このライトノベルがすごい!2019」新作部門で3位に選ばれるなど人気の青春ラブストーリー。この作品が『日和~』を世に問う上での、大きな試金石となったという。

セカイ系リアルタイム世代」の岬さんが高校時代に受けた衝撃に始まり、いま「セカイ系」を背負って小説を書くことの意味、自身の作品に影響を与えた作品まで。その言葉の数々は、究極的には「主観」の重なり合いにしかその正解(らしきもの)は見つからないという、セカイ系の本質を射抜くものだった。この本を手に取ってくださった皆さんなら、ここに記された言葉を読んで、この人の書く物語を必ず読んでみたくなるはずだ。

(聞き手・構成:北出 栞)

 

『日和ちゃんのお願いは絶対』PV

 

――「セカイ系リアルタイム世代」とのことですが、お生まれになった年と、「セカイ系」という言葉に出会った経緯を教えていただけますか?

 1984年生まれです。2001年、17歳のときに当時5巻まで出ていた『最終兵器彼女』に出会いました。部活の夏合宿に向かうバスの中で、友人に貸してもらって一気に読み切った記憶があります。

 「セカイ系」という言葉自体を知ったのは、おそらくゼロ年代の中頃だったと思います。2003年頃に大学で『最終兵器彼女』について取り扱った講義を受講していたのですが、その頃にはまだ「セカイ系」という概念は認識していませんでした。なのでおそらく、それ以降のことだと思います。経緯は正確には覚えていないのですが、それこそネット上で東浩紀さんや宇野常寛さん界隈の評論、批評に触れる中で、だったように思います。僕としては、(それが揶揄を含んだ呼び名であることは承知の上で)非常にしっくりくる命名であると感じました。確かに、あれらの作品を通じて僕が触れたもの、そこに描かれていたものを「セカイ」と表現するのは、意味、響き、字面の面で適切だったように思います。

 ちなみに、その言葉を知った段階で『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』は既読でした(『イリヤ~』は確か、『最終兵器彼女』に近い作品としてタイトルが挙げられているのを見て読んだ記憶があります)。その後、その名称に連なっている『ほしのこえ』などを順番に鑑賞していきました。

 

――最初からしっくりくるものがあったんですね。なぜ岬さんご自身は「セカイ系」に惹かれたのだと思いますか?

 なぜ惹かれたのかは、自分にとってもこの20年間とても重要なテーマでした。また、数多のセカイ系批評、評論が存在し様々な意見が交わされている中で、僕に提供できるものがあるとすれば、それは「当時その作品に心酔していた十代読者の主観」なのではないかとも感じていました。

 なので、ここからはあくまで一読者のまったくの主観であるという前提で、可能な限り当時のことを思い出してみようと思います。また、自分はセカイ系作品の中でも、特に『最終兵器彼女』に深く感銘を受けたこともあり、説明も主に『最終兵器彼女』と自分、の関わりの話になってしまいます。そのような偏りがあることを、あらかじめご容赦ください。

 まず前提として、当時の僕がどういう高校生だったか。

 2001年当時、僕は所属していた吹奏楽部の活動に夢中で、日々遅くまで仲間との練習に励んでいました。後にアニメ『響け!ユーフォニアム』が放送されはじめた頃、高校時代の友人から「当時の自分たちとほぼ同じ空気だぞ」なんてコメント付きでお勧めされたので、楽しく有意義であると同時にピリピリした毎日でもあったのかなと思います。また、当時初めて交際する恋人ができ、その相手との関係にも頭を悩ませる日々でした。

 漫画を読むことはあまり多くなかったものの、小説はよしもとばななさんや北村薫さんの作品をよく読み、それら以上にたくさん音楽に触れていました。当時好きだったのはアース・ウインド・アンド・ファイアーや、マーヴィン・ゲイなどのソウルやR&Bジョン・コルトレーンなどのジャズ。国内のミュージシャンでは、海外音楽に影響を受けたGRAPEVINETRICERATOPSNONA REEVESをよく聴いていました。それと同時に丹下桜さんも大好きだったので、オタク文化サブカル、両方摂取するタイプであったと思います。 

 『最終兵器彼女』は、そんな自分に一読で強い衝撃を与えました。山道を走るバスの中、読みづらかったのは間違いないですが、合宿会場に着くまでにそこにある全5巻を読破しました。友人たちも、濃淡の差はあれ興味を持って読んでいたように思います。衝撃は簡単には冷めやらず、合宿中もその話ばかりしていましたし、地元に戻ってからも新刊の発売を心待ちにする日々でした。最終話がスピリッツに掲載された際には、購入して部の仲間全員で読み、最終巻が発売になったときにも部室で皆で回し読みしました。中でも特にラストの展開には激しい衝撃を受け、2ヶ月ほどそれを引きずる生活をしました。

 岬 鷺宮個人としての「セカイ系との邂逅」はそのような経緯でした。

 では、なぜそこまで惹かれたのか。

 衝撃が強すぎるあまり当時は冷静な分析はできませんでしたし、むしろ作品を通じて受けたダメージを大切にしたい、という気持ちがあり客観的視点に立つこと自体を避けてきたところもあります。ただ今になって考えてみれば「それがあまりにも自分の恋愛の体感と合致していた」ことが原因であるように思います。もちろんそれは、作中で明白に描かれている恋愛のやりとりだけでなく、「セカイで起きていること」を含め、「高校生の恋愛における心象風景の描写」として正確であり、なおかつ心地好いものだったという意味合いで、です。

 当時の僕は、初めての交際が始まったばかりで恋愛経験が非常に不足していました。目の前にいる恋人、あるいは異性全般に対して多大な幻想を抱きつつ、少しずつ「無責任な憧れ」を抱くだけではいられなくなる。恋人同士、という人間関係が発生することで、相手の「理解できない」「受け入れられない」側面に気づき始める。

 同時に僕は、現実の「世界」に対しても同様のイメージを抱いていました。素晴らしい音楽や物語などの文化があり、ネットやラジオや雑誌の向こうに美しい景色がある。けれど、高校生になり様々な社会問題が見えてくる。

 そしてここで、やや論理の飛躍があるのですが、当時の僕は「恋人の向こうに世界を見る」という感覚を抱いていました。美しくも分からないもの、という共通点のあるその二つを、どこかで同一視していたのかもしれません。少なくとも、当時の僕にとって両者の「わからなさ」は同質のものであり、恋人と接するのを通じて世界にも接するような感覚がありました。そのような「無責任な憧れ」と「肌で触れるわからなさ」の入り交じった感覚を、極めて詩的に、自己陶酔可能な形で物語にしたのが「セカイ系」、あるいは少なくとも『最終兵器彼女』であったのではないか、と考えています。

 『最終兵器彼女』の最終巻、7巻のあとがきにおいて、高橋しん先生がこのように書いています。「彼女が最終兵器」という設定を思い付いた直後、それを様々な状況に当てはめて考えたというくだりで、

例えばそれを自分の妻に置き換えて考えたり、結婚する前の今より少しだけおばかさんな時代の私たちだったり。もっとおばかさんな、妻とつきあう前の自分のことだったり。例えば、人生の中で、「陸上部」と「恋愛」のことだけで生きていけたおそらく唯一の時代の、あの頃の僕らであったり。

 本編を読めば、作品の基本設定が「『陸上部』と『恋愛』のことだけで生きていけたおそらく唯一の時代の、あの頃の僕ら」を元にしていることはおわかりいただけると思います。そして、『最終兵器彼女』を読んだ頃の僕はまさに、部活と恋愛のことだけを考えていた。そういう意味で、僕は狙い澄まされたように『最終兵器彼女』の、想定読者のど真ん中であったのかなとも思います。

 さらに、ここであえて主観的な説明を逸脱すれば、当時まだ世紀末的な空気感が残っていたことも言及を避けられないと思います。ノストラダムスの預言やミレニアム、オカルトブームの名残など、どこかで「世界、終わるかもね」というぼんやりとした空気があった。実際僕自身、幼い頃にずいぶん熱心にノストラダムスの預言書の解説本を読みました。オカルトファンでもありました。ポスト・エヴァンゲリオン、ポスト・オウム真理教の時代ではありつつ、その時代の残り香があったことも確実に影響はあっただろうと考えます。

 

――とてもリアリティのあるお話でした。そうして岬さんに強い印象を残した「セカイ系」ですが、そのジャンルとしてのコアを岬さんなりに言語化するなら、どういったものになるかを教えていただけますか。

「SF的ギミックによって、詩的に隠喩された未熟な恋愛」

 上記の分析を経て、これが現在僕自身が考えている(狭義の)セカイ系のコアです。

実際に、上述した『最終兵器彼女』の最終巻あとがきで、高橋しん先生はこのように述べています。

ふたりの恋だけが、全てです。正しい正しくないなどは、意味を持たないし、リアリティーなど、ただ、それだけのためにあればいい。二人の気持ちだけが、本当であれば。「その恋」の前には、作家一人が考えたストーリーなど、所詮ウソにしか過ぎません。

 また、これまでの高橋しん先生のイラストがカラーで掲載された画集、『LOVE SONG 2002』(小学館刊)では、『最終兵器彼女』初代担当編集者である小室ときえさん、後任編集者である堀靖樹さんの証言として、

小:整合性に対するジレンマは、初期の頃、私にもありましたね。「先生、ここ、誰が侵略して来てるんですか?」とか聞いたこともあったけれど、「小室さん、恋愛モノなんですから」って先生はおっしゃって…。

堀:読者の中には読んでいて納得いかないって思う人も必ずいると思うんだけど、単純に、恋をしているふたりを引き裂くものが「戦争」だったという世界なんだよね。だから主に彼女の内面を描くまんがだったんだ。普通は絵で考えると難しいんだけど、その辺が高橋先生のうまいところなんだよね。

小:いろんなことがありましたけど、「恋愛」という形にしにくいものを、イメージとしてうまい具合に固定した、見事な作品のひとつと言えますよね。

という発言が紹介されています。つまり、少なくとも『最終兵器彼女』に限って言えば「未熟な恋愛」が主題であり、それを描くために「SF的ギミック」で「詩的な隠喩」をしているという構造なのではないかと考えます。

 僕が現在刊行中の『日和ちゃんのお願いは絶対』も、まさにその前提から始まり、現代的なチューニングをしながら展開している作品です。ヒロインが「絶対のお願い」という能力を持つというSF的ギミック。これは僕自身の中で、伊藤計劃さんの『虐殺器官』に出てくる「虐殺の文法」に近いものであると考えているものです。

 世界全体に起きる混乱は、ポスト冷戦時代的な「最終戦争」ではなく、「テロ」「災害」「感染症」を始めとした複合要因。主人公のキャラ造形も、当時よりやや好青年な(故に本心からは現実に向き合い切れていない)キャラに設定しました。コロナ禍以前に企画された、ということもありどれだけ現代の感覚をキャッチアップできているかはわからないのですが、根源の部分で「セカイの出来事は切実に描かれてはいるけれど、恋愛の比喩とも取れる」という構造を持っています。

 ただひとつ個人的に面白いと思うのは、この構造を逆に運用している作品さえ、セカイ系と認識されることがあることです。前述の伊藤計劃さんの『虐殺器官』そして『ハーモニー』は、『最終兵器彼女』とは逆。SF的な発想をよりつぶさに描くために、登場人物たちの感情を運用しているように思います。

 このことを指して伊藤さんが発言した内容が『伊藤計劃記録』(早川書房刊)においてこのように記述されています。

社会そのものが、テクノロジーを経由して、個に投影される、という。

だから、『虐殺』をセカイ系だという方もいらっしゃったんですけど、それはちょっと待て、違う、流入経路が逆方向だ、と(笑)。個がセカイに直結しているんじゃなくて、セカイが個に直結している。逆セカイ系なんです。

 何を「セカイ系」と呼ぶかは、もちろん確定した定義など存在しないとは思います。ただ体感として、僕は『虐殺器官』『ハーモニー』のような本来「逆セカイ系」である作品が「セカイ系」と呼ばれることは、現状少なくなくなっているのではないかと思います。よって、

狭義のコア:「SF的ギミックによって、詩的に隠喩された未熟な恋愛」
広義のコア:「個人の感情と世界の出来事が、両者の描写を補完する構図」

という二重の定義が、現在ぼんやりとあるのではないかというのが私の意見です。ここはぜひ、北出さんにもどう思われているか伺いたいところです。

 

――ではお言葉に甘えて……とはいえ、狭義のコア、広義のコアともに、自分も岬さんと99%同じ見解なんです。ただ、その1%の違いが大きいかもしれなくて。それはおっしゃっていただいた「広義のコア」の「補完」……矢印で表すと「個人⇔世界」となる点について、自分は「個人→世界」という、一方通行を基本としたものだと考えているんです。つまり伊藤計劃さんの「逆セカイ系」は、まさに「逆」であるがゆえに、もっともセカイ系とは遠いところにある。

 ただ、個人と世界(の描写)が直結する、という意味では、古事記のような神話大系ですらセカイ系と呼びうるんですよね。そう考えると、テクノロジーの影響を受けて登場した「逆セカイ系」こそが、物語の歴史においては新しいものと言える。ですので逆説的ではありますが、そのような新しい物語を「逆~」という形で定義できるようにしたという意味で、ジャンルとしての「セカイ系」には歴史的な意義がある、という言い方ができるのかもしれませんね。

 そのご認識、非常によくわかります。僕個人が期待する「セカイ系」もまさに「個人→世界」であって、その逆の構造にある快感はもはや別物、という風に思っています。

 ただ、たとえば『天気の子』は、僕が拝見した限りでは新海誠監督の社会に対する問題意識に端を発し、その表象としての帆高と陽菜の関係性、さらには「天気を操る」という能力が描かれているように思われました。

 そうなると、北出さんの認識でいう基本的なセカイ系構造とは少しずれるように思います。そこでご意見を伺ってみたいのですが……ずばり、『天気の子』はセカイ系だと思われますか?

 

――『天気の子』はネットを中心に「俺たちの大好きだったセカイ系が帰ってきた!」と騒がれていましたよね(笑)。ただその中で僕が気になったのは、「原作として恋愛アドベンチャー版『天気の子』があった」といった与太話もある中で、「夏美ルート」とかを切り捨てた「陽菜ルート」があの映画なんだ、その上で「世界か、陽菜か」を選んでいるんだということが強調されていた点です。つまり「選択肢を切り捨てる」という「決断」の要素が、そこでは「セカイ系らしさ」とみなされていたんですね。

 しかし自分にはそうは思えない。岬さんのおっしゃった「未熟さ」という定義にもかかわってくるところだと思いますが、「個人→世界」のベクトルがある中で、主人公たちが「世界の終わり」に象徴される、何かおそろしいものに触れてしまう。その前で立ちすくむか、世界のルールそのものを書き換えてしまうか。この二つの方向性が、ともにセカイ系と呼びうるんじゃないかと思っているんです。

 個人の「決断」なんかでどうにかなるんだったら、「世界の終わり」なんてよくわからないものを描く必要なんてない。その意味では『天気の子』はルールの書き換えまでは行っていないし、せいぜい(とあえて言いますが)起きるのも東京水没くらいのものです。その意味でセカイ系ではない。

 ただ、セカイ系として読む道も残されていると思っていて、それは凪くん視点で観た場合です。凪くんからすると、自分の大好きなお姉さんがわけもわからず消えてしまって、その理由はどうやら帆高だけが知っている。あの作中において「世界の終わり」みたいな不条理がその身に起こっているのは、凪くんなんですよ。だから、「全部お前のせいじゃないかよ!」という凪くんの台詞に、僕は凝縮されたセカイ系を見ます。全体が帆高と陽菜を軸にしてセカイ系「っぽく」偽装されているからこそ、あの瞬間が輝く。

 北出さんから「不条理」という言葉が出てきたことに驚いています。というのも、自分が現在『日和~』を書く上で意識しているのも、まさに「不条理」というテーマだからです。

 正直なところ、僕の思う「純粋なセカイ系作家」は、時代に対する意義というよりも、読者個人に対してどのように作用するか、あるいは自身にとってどのような意味を持つかに意識を置いて作品を制作しているように思います。

 ただ、「詩的表現である」としても、現実にある世界の問題を描いている作品であることには変わりない。だとすれば、当然時代や社会に対する意義も問われるでしょう(実際、セカイ系に対する批判のうちの大きなものは、戦争や終末的状況を、あくまで「詩的表現」「恋愛の比喩」として使用している面に向けられていると感じます)。新海監督が『天気の子』でセカイ系的な構造を持ちつつも、監督自身の社会に対する意識を意図的に表面化させたように、僕自身も『日和~』に対して、同様の側面をきちんと持たせる前提で考えています。物語世界の中で起きている問題が、今の世の中とどのような共通点を持つのか。そしてそれに対して主人公がどのように考え、行動するのか。あまり細かく書くとネタバレになってしまうのですが、『日和~』の世界と現在の社会における共通点こそ、まさに「不条理」が一般に暮らす多数の人に対して切実な問題になりつつある、ということだと思っているんです。

 少し前にアルベール・カミュの『異邦人』を読み衝撃を受け、その流れで『シーシュポスの神話』『ペスト』と読み進めたのですが、最近自分自身が関心を持っている問題が(そして、実は『三角の距離は限りないゼロ』で少し前に軽く触れていた問題が)「不条理」という呼び名で論じられているということをようやく知りました。なので『日和~』は読者の主観にも近い感覚を持った主人公が、不条理にどのように向き合うか、という物語としても機能するようにしたいと考えています。

 ただ同時に、根本的に『セカイ系』は「不条理」と全く逆向きの感性です。それをひとつの作品の中で両立させたとき、どのような反応が発生するかは自分でも読めないままでいます。

 

――この本を作ろうと思った動機とも通ずるものがあり、心から共感します。『日和~』の企画当初のお話も改めてお聞きしたいのですが、なぜ、作家デビューされてから10年近くを経たタイミングで、セカイ系の王道的な作品を書こうと決意されたのでしょうか。

 自分自身の力量と、社会的な状況の両面からです。

 少なくとも僕がデビューした10年前は、ストレートにセカイ系を書いてそれが読者に響くことはあまり考えられない時代だったと思います。その後、なろう系を始めとしたファンタジーライトノベルが復興する中でも、セカイ系がそこに入り込む余地はなかった。また、僕自身の当時の力量では、憧れであるセカイ系を正面から、良い作品として書き上げることは不可能だったと思います。

 それが10年経ち、まず『三角~』で好評をいただきました。ライトノベル界で写実的な恋愛が受け入れられるという手触りと、読者との信頼関係が結べたという感覚。また、自分自身がそれを描く実力を手に入れられたという実感を得ることができました。新海監督が再度注目を浴びたことも大きかったように思います。改めて、「セカイ系」は現在の若者にも響くことが証明された。であれば、まずはこのタイミングで一手を打ってみるのが、僕自身の状況的にも市場の様子を見ても、適切だと考えました。

 もちろん、正解がどこにあるかはわからずあくまで「まずはストレートに」という感覚ではありましたが、一定以上の収穫はあったように思います。

 

――必ずと言ってもいいほど定義論争が巻き起こる「セカイ系」を自ら冠することにはリスクもあったと思います。『日和~』が「セカイ系」を大々的に謳った形で世に出ることになったのはなぜなのでしょうか。

 シンプルに覚悟の問題です。僕自身の中で20年間大切にしてきた「セカイ系」への気持ちを形にする上で、リスクやメリットやすべて織り込み済みのうえで真正面から斬りかかりたい。だからこそ自らそれを名乗りました。

 

――『日和~』執筆の後押しになったという『三角~』についてもお聞きしたいです。以前Twitterで「『三角~』はセカイ系の系譜にあるものだと思っている」とおっしゃっていましたが、これはどういった意味においてでしょうか。

 まず第一に、本来、記号化を前提とするキャラクターコンテンツにおいて、写実的な恋愛を描こうとしている、という意味においてです。ライトノベルにおいては恋愛自体も記号化されることが多く、描かれる感情自体がエンターテイメント的な類型の中に収まりがちです。そんな中で、キャラや記号化を用いて最終的に描こうとしているものが「現実の恋」「現実の人間」であるあたり、それをどこか感傷的に描いているあたりがセカイ系の影響下にあります。また、「人間本来が抱く矛盾、複雑さ」を「人格の乖離」というギミック、比喩に落とし込み陶酔可能にしている点でも、セカイ系的な構造を参考にしています。

 さらに言うなら、日本のオルタナティブロックバンドの曲、具体的に言えばGRAPEVINEの「光について」という楽曲の構造(メロディラインの機能や歌詞、演奏のディテール)を物語に置き換えるのが『三角~』の構造の基礎コンセプトなのですが、「光について」が発売されたのは1999年。全体として『三角~』は、世紀末からゼロ年代初頭の作品に近い感覚で制作されているのかもしれない、とも思います。

 

――『日和~』について少し細かい質問もさせてください。尾道が舞台になっていますが、大林宣彦監督作品からの影響があるのでしょうか? 思えば、新海監督の『君の名は。』も『転校生』オマージュといえる作品でした。

 非常に鋭いご指摘です。大いに影響があります。

 小学生の頃、学校の授業で大林監督作品である『ふたり』を鑑賞しました。今となってみれば王道のシンプルな青春ストーリーに見える『ふたり』ですが、当時自身があまりに幼かったせいで、ずいぶんと大人で洒落た、憂いのある物語に見えました。それはまさに、僕にとって「セカイ」に触れるような経験で、その舞台となっていた尾道にも「セカイ」の印象が強く結びついていました。だからこそ『日和~』の舞台に尾道を選びましたし、『ふたり』で見たような印象でその町を描きたいとも思っています。

(そしてやや余談ですが、その『ふたり』の主題歌になっていた大林監督、久石譲さんデュエットによる「草の想い」も非常に好きで、後に同じメロディラインが『紅の豚』の「帰らざる日々」で使用されているのに気づき、驚くとともに感動したのを覚えています)

 

――『三角~』や『日和~』を執筆するにあたって、養分になっていると感じる作品のタイトルを教えていただけますか。

 基本的に、音楽がかなり養分になっているように思います。若い頃に物語よりも音楽を多く摂取し演奏していたこともあって、自分自身の思考と音楽は切り離すことができません。意識しているところやしていないところ含め、様々な部分に影響が現れているだろうと思います。ちなみに、海外の楽曲を聴いてしまうと感覚が日本のエンタメ市場からずれてしまうような気がして、執筆期間中は可能な限り邦楽を聴くようにしています。

Bizarre Love Triangle / ニュー・オーダー
『三角~』の英語タイトルの元にもなった楽曲です(いきなり洋楽ですが……)。ニュー・オーダーのセンチメンタリズムは、90年代中盤に文化に憧れ始めた自分にとって「ああ、これがオリジナルなんだな」と思える匂いを感じるところがあり、原点の香りを嗅ぎたいときなどによく聴いています。作品にもその匂いを混ぜ込みたいとも考えています。

光について / GRAPEVINE
上述の通り、楽曲の構造を『三角~』の構造の参考にしました。ポップさとそうでない要素の組み合わせ方のモデルとしています。

遠くの君へ / GRAPEVINE
構造が「光について」であれば、精神性はこちらを参考にしています。アンニュイで切実で性的なこの楽曲の肌触りを、『三角~』では再現したいと考えていました。

ムーンライト銀河 / 相対性理論
最終兵器彼女』以外ではもっともセカイ系を感じるのが相対性理論の存在なのですが、その中でも特にセカイ要素を感じるのがこの楽曲です。

愛妻家の朝食 / 椎名林檎
前述の、初めて『最終兵器彼女』を読んだバスの中で、同じように部員内で回して聴いていたのが椎名林檎さんのシングル『真夜中は純潔』でした。その中でも僕はカップリングのこの楽曲が非常に好きで、繰り返し聞きながら『最終兵器彼女』を読んだため、当時の感覚の密接に結びついています。あの頃の気持ちを思い起こしたいときは、この楽曲を聴くようにしていました。

君の街まで / ASIAN KUNG-FU GENERATION
実は自分はあまりASIAN KUNG-FU GENERATIONを聴かないのですが、『日和~』の主人公である頃橋がいわゆるロキノン系バンドを好き、という設定があり、頃橋の内面を描くときにチューニングを合わせるため、この辺りの楽曲を意識的に聴くようにしていました。

音楽以外では、

悪の華 / ボードレール
『三角~』のテーマのひとつに「アンニュイ」があるのですが、そのオリジナルのひとつとして一時期繰り返し読みました。

ガラスの街 / ポール・オースター
自己の存在について、詩的かつ都会的かつ音楽的な筆致で思考する様は、まさに『三角~』の目指す空気感の一つの理想型でした。上述のニュー・オーダーとも似た匂いがするように感じます。

ストロボライト / 青山景
岬の思う恋愛ものストーリーのひとつの理想型です。ポップさとそうじゃない要素の組み合わせ方も素晴らしい。

かか / 宇佐美りん
最近デビューの作家の中で、もっとも衝撃を受けたのが宇佐美りんさんでした。それこそここ十年では一番かもしれません。特にこの「かか」の持つ強度に似た強さを、自作のヒロインに、特に『三角~』の秋玻/春珂に宿らせたいと思います。

 

――音楽的な構造を小説に落とし込んでいる、というお話を受けてお聞きしたいのですが、「セカイ系」を紡ぐ上での小説というメディアの強み、あるいは小説というメディアで「セカイ系」を紡ぐことの難しさはどういったところでしょうか。

 まずは強みに関して。「セカイ系」に対してのみならずではありますが、やはり「自意識」を文章の形で描けることが小説媒体の強みであるように思います。『最終兵器彼女』もそうですし、たとえば羽海野チカさんの作品もそうですが、漫画においてキャラクターの内面を文字として配置するのには、優れた作家であってもかなりの工夫を要するものであるように思います。また、そのボリュームも必然的に絞ったものになりがちです。もちろん、小説においても表現に力量や工夫、技術は必要なのですが、人の内面を景色に反映する傾向のある「セカイ系」を描く際には、小説という媒体はそのあたりに強みを持つように思います。

 逆に弱みは、その意識の反映された景色を「景色」として見せられないこと。ビジュアルとして、見せきることができないところでしょうか。『日和~』は(イラスト担当の)堀泉インコさんのお陰で完璧なイラスト化をしていただいており、僕自身十分以上の満足と感謝をしているのですが、全ての場面をイラスト化できるわけではありません。そこはやはり、現実的な弱みとしてあるように思います。

 

――ちなみに、同世代、あるいはご自身より下の世代で、「セカイ系」的な感性を持ち、それを作品に落とし込もうとしていると感じる(つまり、シンパシーを感じる)ライトノベル作家・小説家の方はいらっしゃいますか。

 それがいないんですよ。いや、いるのかもしれないんですが、今のところ見つけられていない。他の部分でシンパシーを感じる作家はいるのですが、セカイ系的感性を自作に落とし込む、という人を見たことがないんです。実はこれが、最大の問題かもしれません。

 

――いろいろと貴重なお話をお伺いでき、とても嬉しかったです。最後に、今後のご予定や目標を教えてください。

 今回、このようにインタビューいただけたことが非常に光栄でした。

 ゼロ年代の頃憧れた批評、評論に「セカイ系」を通じて関わらせていただけるなんて……ちょっと夢みたいな気分です。

 今後も、もちろん軸足はライトノベル作家としつつではありますが、より自分のポテンシャルを生かす形で活動の範囲を広げていくことができればと思っています。

 僕個人の目標は、20年前から変わらず『最終兵器彼女』のヒロイン「ちせ」と会うことです。自分で正面からセカイ系作品を書けば少しでも彼女に近づけるかと思ったのですが、まったくそんなことはなかった。次はどうやってあの子のいる場所へ向かうか、改めて考えている最中です。

(2021年8月、メールインタビューを再構成)

 

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