ferne web

セカイ系同人誌『ferne』Web版

インターネット・空気・コミュニケーション――ネット世代の表現者が見つめる〈セカイ系〉のポテンシャル(布施琳太郎×~離×北出栞)

北出栞と申します。〈セカイ系〉という言葉・概念にどうしても惹かれるものがあり、2021年秋に『ferne』という評論系の同人誌を個人制作しました。

制作の詳しい動機は本誌の前書きに譲りたいのですが、基本的な方向性としていわゆる「2次元」のキャラクターを中心とする「君と僕」の恋愛物語といった形式性に囚われない、〈セカイ系〉という響き自体に宿る質感のようなものを取り出したいという思いがあります。そのためにはおそらく、論評の対象を形式的なものとして(ひとまずは)切り取る批評の言葉よりも、「世界」との距離を探りながら作品という形に結実させていく、実作者の感覚の中にヒントがあるだろうと、制作中から感じていました。

そうした経緯から某日、現代美術領域でアーティストとして活動する布施琳太郎さんと、ミュージシャンの~離さんを招いて座談会を企画しました。批評や詩作など文筆も手がける布施さんは新海誠をはじめとした「セカイ系」作品への言及が随所であり(『ferne』にも素晴らしい寄稿をいただいています)、~離さんはボーカロイドを用いたEP『新世界空気系』を自身のレーベル・i75xsc3eの第一弾作品として2021年にリリース、「他者の存在を要請するセカイ系からの脱出。物語を放棄した個人は、原子となって空気系に取り憑く。」という概要文には「セカイ系」に対する独特の眼差しが感じられます。

それぞれに注目していたお二人は、布施さんが今年発表した映像作品《イヴの肉屋》に~離さんが楽曲・ナレーションで参加するという形で交錯。本座談会はちょうどその展示の前後に収録されたものです。お二人の作品や活動を読み解く上でも、また〈セカイ系〉の持つポテンシャルを広げる上でも非常に貴重な場になりました。ぜひお楽しみください!

布施琳太郎《イヴの肉屋》(2021)の一コマ。(撮影:北出)

セカイ系と「インターネット」

北出 本日はよろしくお願いします。まずはお二人のざっくりとしたセカイ系観、遍歴といったものからお伺いできればと思います。布施さんいかがでしょうか。

布施 『ferne』に寄稿した文章にも書いたんですけど、小4のときに新海誠の『雲のむこう、約束の場所』という作品をたまたま観る機会があって、それがセカイ系と呼ばれる作品に触れた最初の体験だったと記憶しています。この作品を忘れたくない、ずっと憶えていたいという気持ちに初めて自発的に思えた作品が『雲のむこう』だったんです。

そのあと中学生になって読む本なども自分で選ぶようになったときに、小説だと村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『海辺のカフカ』、アニメだと『新世紀エヴァンゲリオン』などに触れていく中で、自分の好きになる作品の傾向が大体わかってきて。そういうものをもっとたくさん観たいと思ったときに、どうやらセカイ系という言葉の下に紹介されている作品を辿っていくと、自分の趣味に合った作品に出会えるらしいと気づいたのが、僕にとってのセカイ系との出会いでした。

アニメにせよ小説にせよ、物語というものはいずれ終わってしまうわけですけど、終わってほしくないときにジャンルみたいなものが切ない気持ちを救ってくれる。僕にとっての「セカイ系」という言葉は、そんな感覚をもたらしてくれるものだったんです。

北出 「セカイ系と呼ばれているらしいと知った」というのは、作品名をGoogleに打ち込んでみたとか、そういう感じでしょうか。

布施 そうですね。というか、シンプルにウィキペディアとかだったと思います。あのページに影響された人はすごく多いんじゃないでしょうか。~離さんもたぶん読んだことがあるんじゃないかと思うんですけど。

北出 ページを見てみると、やたら東浩紀さんの本とかから引用されていたり。具体的な作品名は……そんなに羅列されているわけではないですね。

布施 あまり当時と変わっていない気がしますね。『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』、あと『エヴァ』があって、プラスちょっと『ブギーポップ』シリーズの話があるとか、そんな感じですね。

北出 ありがとうございます。~離さんはどうでしょう。

~離 自分の場合は、アニメを観始めたのがここ3年くらいで。

北出 へえ!

~離 2001年生まれで、そもそも『エヴァ』が一度終わってから生まれているので。肌感覚としてもアニメの歴史的な系譜というものをあまり感じずに育っています。最初にアニメを観始めたのも、「ツイッターでなんとなく気が合う人がだいたいアニメを観てるから、自分もアニメというものを観てみよう」みたいな感じで始まっていて。それで最初に観たのが『エヴァ』だったんです。

で、『エヴァ』についてツイッターでフォローしている人が語る際にセカイ系という言葉が使われていると。そこからセカイ系ってなんだろうと思って、それこそウィキペディアとかを見てなんとなく内容を知っていった形です。

そこから「この作品はセカイ系なのか?」とか、「セカイ系から影響を受けているのか?」とかっていうのを考えながら観るような視点が少しずつ育っていって、最近の作品で一番食らったのが『天気の子』でした。『天気の子』がセカイ系かどうかは議論の余地がありますが......。今でもサントラを毎日聴いて泣いています。

布施 セカイ系って、キャラクターや設定、ストーリーについて語られることはよくある一方で、音楽的なところで語られることってあまりない印象が僕自身はあるんですけど。~離さんは、『天気の子』の音楽そのものにキャラクターや物語とは違うところで惹かれる部分があったんですか?

~離 音楽そのものですね。アニメーション作品のサントラをよく聴くのですが、よりセカイ系的な雰囲気をまとった音楽だからこそ惹かれるというよりも、純粋に音楽としていいなって感じです。

北出 むしろ~離さんぐらいの世代では、アニメを観ること自体はすごく一般化してきたところがあると思うんです。そういう中で『エヴァ』に出会うまでアニメを観ずに過ごせたというのは……なんというか、運がいいですね(笑)。

~離 いえ! こんなに面白いものならもっと早くから観ていればよかったという気持ちでいっぱいです(笑)。インターネットを始める以前は、家庭や学校の友達とかにそういう文化圏の人が全然いなかったんです。アニメというものに対して偏見というか情報がない状態でいきなり『エヴァ』を観たので、アニメ鑑賞体験の礎になってしまったというか、後に見たアニメ作品もどうしても無意識に『エヴァ』と対比してしまうような、そういう基準ができてしまった部分はあるかもしれないですね。

北出 お二人の話を重ね合わせると、インターネットを経由して作品と作品を結びつけるものとして、セカイ系というワードが遍在しているってことですよね。そうなったときに、セカイ系とはそもそもは揶揄的な言葉だったみたいな話とかもウィキに書いてあったりするわけですけど、自分が好きなものがそういう風に論じられてるんだと知ってギャップが生じたりとか、ちょっとこれは違うんじゃないか、という風には思いませんでしたか。

布施 自分の大切なものが傷つけられているとか、虐げられてるっていう風には思わなかったですね。そもそもセカイ系という言葉を知った時点では、「本を読んで批評を摂取する」という仕組みを単純に知らなかったので。セカイ系という言葉の下に、『エヴァ』と村上春樹新海誠が並べられていることを、当時の自分は創造的な行為として捉えられていなくて。ですが宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』を高校生のときに読んだ際に、そこで「決断主義」とか言って、『ジョジョの奇妙な冒険』とか『DEATH NOTE』とか、複数の作品を紐付けて、一個の言葉で説明するみたいな態度に衝撃を受けた。それはやっぱり書籍という形だったからで、ネットを通じて触れているときは、セカイ系みたいな言葉と作品が繋がってることに対して、何か自発的な感想を持つまでは行けなかったなというのが正直なところです。

北出 なるほど。インターネット発の言葉だからこそ書籍という物理媒体に議論が集約されていることに意義があるというのは、編集者としては身に染みる話です。

セカイ系と「空気」

北出 ~離さんは『新世界空気系』というEPを出されていて。このタイトルはセカイ系の後に空気系があるという、ある種の批評的なストーリーもご存知の上でつけたんだと思うんですけど。

~離 批評の歴史は隠し味程度の意識でタイトルを付けました。でも確かにあのタイトルは、一種のセカイ系に対するアンチテーゼではあります。個人的にはセカイ系よりも空気系と呼ばれている作品で行われていることにすごく関心があるというか、共感できて。いわゆる「君と僕」という関係性がセカイ系の中ではあるじゃないですか。まず作品があって、批評の中で立ち上がってきたような定義だと思うんですけど、個人的にそういう関係性を描くことにしっくりこない気持ちがあります。自分が作品を作る側になったときには、そうではないものを作りたいと思っていました。

北出 確かに~離さんのコンセプト文にも書いてある通り、セカイ系は他者を必ず必要とするジャンルだという言い方もできると思います。布施さん的には、セカイ系の「君と僕」的な要素についてはどう捉えているんでしょう? ご自身の作品の中でもコミュニケーションの問題だったり、インターネット上における個人とか孤独とかそういったものをテーマにされていると思うので、振り返ってみて現在の自分の作風とセカイ系における他者性みたいな要素と、重なるところが取り出せるのかなと思って。

布施 直接の答えにはならないかもですが、自分は絵を描くこともあって、セカイ系を「距離」の話として解釈しているんです。「君と僕と社会」とかも同じ話だと自分は思うんですけど、絵画の画面というものは近くにあるものと遠くにあるものの距離を比較する形で構成される。だからこそ、近くにあるということと遠くにあるということの距離が何らかの仕方で壊れてしまっているような状況が表れている想像力……セカイ系に特別なものを感じるんです。

そして、僕が批評に初めて触れたときの経験も、ある意味セカイ系だったんだろうなと思います。いわゆるポストモダン以降の人間と言っていいのかもしれないですけど、目の前にある作品と、すごく遠くにある概念や歴史といったものを紐づけることができてしまう……セカイ系をはじめとした想像力を担保するものとして、今生きている僕たちはそういう能力を持っているように思っていて。目の前にあるものと遠くにあるものをパラフレーズしたり、距離やスケールを様々に入れ替えてしまうということ自体を象徴するのが、セカイ系という概念が潜在的に持っている力なのかなと。だからこそ『エヴァ』や新海誠は、東浩紀をはじめとしたポストモダン時代の批評家の人たちに言葉を紡がせ続けてしまったんじゃないか。

まとめると、距離を破綻させて、本来隣り合うはずのない様々なフレーズやスケールをつなげてしまう想像力としてセカイ系というものを自分は受け止めています。

北出 セカイ系がある時代を象徴する批評の対象というより、むしろセカイ系という概念自体が批評という概念とニアリーイコールであるということですよね。~離さんは今の話を聞いていかがでしょう。空気って身の回りを取り巻いているものですが、~離さんが空気系にのシンパシーを感じるのって、あらゆるものに対する距離がゼロになってしまったという感覚が、ご自身のリアリティとしてあるということなのかなと思ったんですけど。

~離 まず、自分が今のお話を聞いて思うのは、やっぱりインターネットのことなんですよね。私たちの目の前に今あるものって、パソコンとディスプレイじゃないですか。それらはすごく自分との距離が近いわけですよ。でもその中で見てる情報って、かなり遠いものも含まれる。自分は今帰省して新潟にいるんですけど、布施さんや北出さんはおそらく東京にいて。300キロの距離が離れているけれども、でもこのインターネットの場においては、その距離がゼロになっている。

アニメを観始めたきっかけがそもそもインターネットの人たちだったという話もそうですが、自分はインターネットを使うことが完全に日常的な動作になっていて。身体の一部といっても過言ではないかもしれません。遠いものと近いものの距離がゼロになるということがもはやネイティブというか、特別意識することもなく生活しています。

だからセカイ系において行われている距離を扱うことというのがあまり見えてこないというか、意識上にまで表れてこない部分があるかもしれないです。そんな中では自分にとってのゼロ距離、空気のようにすごく距離が近いものの変化のほうが意識的に捉えられる。

北出 そういう意味での「空気系」というか、そこでイメージされている「空気」を感じさせる作品って、具体的にはどういうものなんでしょうか。

~離 一番印象的だった作品は『〈物語〉シリーズ』です。原作は読んでいないので、原作のほうではもしかしたらまた全然違った印象かもしれないですけど。一応、阿良々木くんが怪異と出会って何やかんやありますが、結局そこで行われてることって会話劇じゃないですか。作品の語り方としては阿良々木くんの存在感が大きいわけですけど、でも舞台の直江津町は全国的に知られた町とは決して描写されていないし、阿良々木くんだって怪異と出会わなければ正義感が強すぎるだけの普通の高校生なわけなんですよ。

つまり、怪異と出会ったから物語が発生しているのであり、『〈物語〉シリーズ』において私たちが本当に見ているものは物語ではなく、阿良々木くんたちが行っている会話とか、新房監督や尾石達也さんによる視覚的な演出とかが醸し出す空気感のようなものなのではないかと。セカイ系作品にあまり共感できない中で、自分が捉えやすいものについて考えようと思ったときに、空気というものに関心が出てきたんです。

北出 なるほど。今の話を聞いて布施さんはどうですか。距離というものが消失してしまった中で、別の形で距離を作ることができないかということを常に思考して作品や活動に落とし込んでいると感じるんですが。

布施 セカイ系自体が持っている距離の問題みたいなものがありつつ、~離さんにとってセカイ系作品が実際に作られていた時代とご自身との間に距離があるという話でもあるなと思って訊かせていただきました。

改めて僕の話をすると、セカイ系がジャンルとして終わったとは、中学生のときには思っていなかった。でも、普通の話になっちゃうんですけど……高校1年生のときに東日本大震災があって。セカイ系の作品やSF小説を読んでいたので、「これで何か世界のルールが変わるんだ」と思ったんです。でも震災が起きてから1ヶ月、2ヶ月と経っていったときに、神奈川に住んでいた自分にとっては、意外なほどに「何も変わらない」という感覚が残ったんですよね。帰れなくなった高校のパソコン室で見た津波の映像とか、そういう視覚的なイメージの強さがもたらした衝撃は覚えています。それは、僕の手に負えないような仕方で、それまで当たり前だと思っていた生活とか社会のシステムみたいなものを変化させるんじゃないかと予感させたけど、少なくとも関東に住む高校生の自分にとっては、決定的な変化が起きたと感じられることがなくて。崩壊とかカタストロフのイメージというものと、現実の社会システムというものの間には物凄い乖離があるということを学ばされてしまった感覚があった。

僕は高校生くらいまで、自分は絶対にアニメやゲームを作ることを仕事にするんだって思っていたんですよ。でも、そういうこともあって、積極的に観たいと思うアニメも全然なくなって。その後、いわゆる美術の方面に行ったわけですが、「作品を作る」ということに対して自分が関心を持ち直せた理由は何なのか考えたときに、今となって思うのは、美術というものが、歴史に対するアプローチであることを自明としているからだなと。人間の身体が耐えられる時間の長さというのはせいぜい100年とかなわけですけど、歴史を前提にするってことは、100年とかのスケールで考えないということで。1000年とか数万年とか前のことと、ごく最近起きたことというのを、ひとつの問題系として捉える思考を許してくれるのが美術という感じがしたんだと思います。

北出 2011年を境に起きたことって、布施さんの言葉を借りると、スケールという概念自体が壊れたということなんだと思うんです。現地で家が流されていくといったイメージが手元のスマートフォンを通じてとても近い距離で感じられる一方で、自分自身の身の回りでは全然被害がない、という体験があった。SNS的な平面が唯一の「現実」を構成するようになってしまった中で、果たしてフィクションはどのような価値を持ちうるのかということを個人的にもずっと考えているんですが、美術という方法論でなら千年とか万年とかいったスケールを持ってこれるという発想は、ポップカルチャーの範囲でうろうろしていた自分にはなかったので目から鱗でした。

あと、観たいと思えるアニメが震災以降あまりなかったという話に関しては、アニメ視聴というカルチャー自体に質的な変化が起こったのもあると思っていて。震災をきっかけとしたSNSの普及と同調するようにして、アニメがリアルイベントを盛り込むといった形が定番化した。コロナ禍を経てまた少し変わるのかなと思いますけど、画一的な「現場感」を重視するような流れがあったんですよね。そう考えたときに、~離さんが『化物語』などに感じた「空気」と「現場感」との違いは何かという問いは考える余地があるし、もし異なるとして、そういう「空気」が今どこでどのように感じられるのかというのも興味深いポイントだなと思いました。

セカイ系と「コミュニケーション」

北出 ここで改めて~離さんの物作りのモチベーションというか、そもそも音楽を始められたきっかけをお伺いしてみたいです。

~離 最初に音楽を作ったときの記憶は全然ないんですよね。何か1曲を完成させて、最初の反響を観察しようってことが、モチベーションとしてあったわけじゃなくて。ソフトを触って、シーケンス的に部分を作るということを繰り返していたときに、これを曲と呼んでみようかという感じだったので、ぬるっと入ったというか。楽器も全然できないですしね。

そもそも自分の場合は、あまり音楽に対して特別な思い入れがないというか。それよりは制作を通して自分の考えていることを整理したり、考えていることをどのように作品に反映させるか実験したりといった作業に関心があるんですよね。普段考えていることとか、社会に対して思ってることを、自分の心の中からアウトプットする形としてたまたま音楽があったという感じなんです。育つ過程とか環境が違ったら別の手段をとっていたかもしれない、というのはちょっと思います。

北出 なるほど。ちなみに楽器も弾かないということは、やっぱりサンプリング的に素材を拾ってきて、加工して貼り合わせて作っていくという感じなんでしょうか。

~離 サンプリングは基本的にはしません。シンセサイザーをピロピロ弾いて、この音とかこのフレーズは気持ちいいな、と思ったら使っていく感じですね。

北出 メロディやコードを弾くわけではないけど、音を出す装置としてのシンセは使っているってことですね。初音ミクを使おうと思ったのは?

~離 初音ミクに関してはあくまで「言葉を付与することができるシンセサイザー」として使い始めました。考えていることを表現するという点で、言葉を使うというのはやっぱりやりたいなと思っていて。最初は自分で言葉を喋るというかラップをするみたいなことをやっていたんですけど、純粋にラップが下手すぎるというか、自分では歌いたくないなと思ったので、初音ミクだったらシンセサイザーとして気持ちのいい音が鳴るし、しかも言葉を乗せられるなんて画期的じゃん、と。

自分で書いた歌詞を自分で歌うなると、声に出して話さなきゃいけないわけで。たとえばヒップホップみたいな「リアルさ」というものが評価されるような場所においてはすごく重要だとは思いますが、自分は別にそうしたくはないというか。自分の考えている言葉が、自分の肉体を通して発せられる必要がない……つまり、自分の思考を自分の身体から切り離して存在させたい欲求があります。

やっぱり声って身体の一部じゃないですか。声帯を震わせて、人それぞれ独特の声が出る。ボカロを使って制作している人たちは、自分のやりたいこととか表現したい世界というものを、自分の体ではなく、ミクという身体を借りることで自分からの距離を取りながら表現することができるわけで、この点はそれぞれの事情にとっても都合がいいんだろうなと思います。

布施 初音ミクを使うというのは、自分から距離を取るということであって、自分が別の身体を手に入れるという感覚ではないんですか?

~離 そうですね。あくまで自分とは切り離された、自分ではない身体という感覚です。

布施 なるほど。だとするとVTuberとかもあくまで自分の身体から距離をとっているのであって、別の身体の獲得自体が目的じゃない可能性があるのかもしれないですね。

~離 VTuberって初音ミクの後に出てきたわけですけど、初音ミクの捉え方というか付き合い方が、逆にVTuberの出現によって変わったということも、ひょっとしたらあるかもしれないですね。

北出 僕は~離さんとは世代的にひと回り違っていて、この三人は布施さんを間に挟んで、ちょうど6歳ずつ離れてるみたいな感じだと思うんですけど。自分の体験として2007年ショックというか、YouTubeニコニコ動画初音ミクも一度に登場したときのことはよく覚えていて。当時大量に違法アップロードされていた深夜アニメやMAD動画と一緒に、初音ミクは盛り上がってきた。要はキャラクターコンテンツとしてってことなんですけど、個人的には〜離さんの言ったような楽器としての可能性に未来を感じていたんです。

ところがいま人気を博している『プロジェクトセカイ』の3Dライブなどを見ると、VTuberと同じような3Dモデリングモーションキャプチャーを使った、キャラクターがヌルヌル動く感じになっていて。距離感はむしろないというか、すごく素朴な意味でキャラクターとして愛される……アイドルとかと近くて、結局はそこに収斂していくんだなと残念に思ったりはするんですよね。

布施さんにこの流れでお訊きしたいのは、東浩紀さんやその周辺がひと頃熱心に論じてもいた、いわゆる「キャラクターアート」の流れについてです。布施さんはインターネット的なものに対するリサーチもしつつ、そういったものとは距離がある作風なのが、ある意味では独特だとも思っていて。布施さん的にはキャラクターという主題ですとか、コミュニケーションにおける人体やアバターの存在って、どういう風に捉えているんでしょうか。

布施 いわゆるアートにおけるキャラクターの話と、コミュニケーションにおけるキャラクターの話とがあると思うんですけど。前者については、まず村上隆というアーティストが、いかにして絵画の問題にキャラクターを落とし込むかというのをやりました。絵画史の中にキャラクターをどう位置づけるかを考えるために、近世以前の日本の絵画とアニメーションの画面構成を比較したりした。それに対して梅沢和木がやったことはまた全然違っていました。男性オタクがキャラクターにどうやって欲望しているのかという構造自体を、インターネットのアーキテクチャを含めて絵画化するという、エクストリームなことをやっていて興味深い。

しかしこうして図式化したときに違和感があるのは、キャラクターを取り巻く欲望を絵画の問題として扱うことが、消費者の代表に過ぎないようにも思えることです。あまり社会的な広がりを持ち得ていないのでは、と。

梅沢和木の達成について述べるなら、それは欲望の眼差しを成り立たせる情報環境のアーキテクチャを絵画化することに一定の水準を超えたところで成功したことです。ただ、アートが絵画にこだわる必要はないだろうとも思うんです。もっと音響的にオタクの欲望を再現するとかもあっていいと思うし、あるいはピクシブニコニコ動画に代わる全く別のプラットフォームを作るとか、いろいろな形での介入があり得るはずです。

もう一方の、コミュニケーションにおけるキャラクターという話については、キャラクターの造形に対してそんなに強い関心を払っていると思えない押見修造の作品とかにこそ自分は注目すべきだと思うんですよね。物語ということについて、コマ割りというシステムだったりだとか、連載漫画という形式の中でしかできないようなことをやっているので。これは新海誠もそうなんですよ。キャラクター造形自体がアニメ・マンガ的な、わかりやすく記号化されたものではないからこそ、物語が逆に複雑化している。

今の時代、人格はいくらでも分裂させることができて、複数持つことは当たり前だという感覚をみんなが持っていて……そういう感覚を物語の水準で体現している作品が、キャラクターの造形的にはむしろ保守的だったりすることは、面白いと思って見ていますね。

北出 VTuberまでいかなくても、いまはSNSアカウントというある種のアバターを誰もが持っていますからね。その同一性を保つことにみんなが雁字搦めになっているような時代なわけですけど、人間って本来状況とか、誰と喋ってるかによっても全然違う語り方をするものだし、前後の文脈とかも当然あるはずで。いまの話がキャラクターよりも「語り」を発生させるシステムに目を向けることが重要なんじゃないかみたいな話だとすれば、自分も腑に落ちるところがあります。

そう考えると~離さんが真っ白のグループチャットを運営している話にもつながるのかなと思うんですが、あれはどういう意図のもとやり始めたんでしょうか?

~離 現状として、発言の内容とか、ツイートした内容とか、「誰が言っているか」に引っ張られすぎているということがあると思います。すごく普遍的な話ですけど、「この人が言ったならこの話は正しいだろう」とか、「この人はあまり人気がないから言ってる情報も役に立たないだろう」とかいった判断がある。それが個人的にはすごくもったいないというか、情報自体に目を向けてないじゃん、と思っていて。だから、オープンチャットには、発言とか情報とかを、その発信者から解放しようという思惑がありますね。

北出 なるほど。運営されているレーベルもそんな感じですよね。読み方も……何と読めばいいのかわからないんですが。

~離 あれは正式な読み方以前に、名前は「ない」ことになっています。「i75xsc3e」はそれを認識するために便宜上与えられた文字列にすぎません。

音楽レーベルや音楽イベントには一般に、コミュニティを作る機能があると思うんですね。レーベルやイベントに、プレイする人も、ファンというか、消費する側の人も集まってコミュニティが形成される。それが楽しかったり、孤独が紛れたりする人も大勢いるでしょうし、大事なことだとは思いますが。ただそこにおいては、作品やイベント体験がそれ自体として受容されてないんじゃないかという風にもちょっと思って。それで作品とか体験を、コミュニティから解放するようなことをしたいなと。

多分シンボルがあるから人が集まってきやすいと思うんです。レーベルやコミュニティの活動を簡潔に表せて、しかもそれを他者へ容易く伝達できますから。だから自分のレーベルではそれとは逆に、名前やロゴといったシンボルを排除することによって集まりにくくしている。そうすることによって、作品を出すというレーベルとしての機能は備えつつも、コミュニティが作り出されることを阻害したいという目論見があります。

そして、作品なり発言なり、そういった情報を個々の人間とか、それぞれのコミュニティから解放したいという、その点でオープンチャットとレーベルはつながっていますね。だからオープンチャットはレーベルからのリリースという扱いになっています。

布施 僕なりの解釈を言わせてもらうと、~離さんが初音ミクという、自分自身の声ではないものを使うことによって書かれた言葉と自分自身との間の距離を取り戻したのとは逆に、作られた作品がひとつのコミュニティの中にあったとき、自分と同じ曲を聴いている他者たちとの境界線が失われてしまう。他者との境界が失われる悦びに陶酔したいから、人はコミュニティを作るんだと思うんです。だけど、~離さんの活動を通じて感じるのは、単に境界を失うために音楽を聴いたり、コミュニケーションをするということではない。自分はそこにひとつの距離が生まれているように感じられて、それに心地よさを感じたから、そういう気持ちを大切にしたいと改めて思ったというか。

なんでこんなことを言うのかというと、僕もTwitterとかのアカウントを介したコミュニケーション、そこで扱われる言葉というのはまさに~離さんが言うように、情報そのものではなくて、その人の言う発言や世界観というものに共感できるかできないか、ということだけでなされているように思うんですね。言い換えると、「自分とこの人の間の距離を失ってたとしても大丈夫な人間かどうか」というのがコミュニケーションの基準になっている。ではそうじゃないコミュニケーションって何だろうと考えたときに、距離を失うということ自体に邁進していく社会の中で、ギリギリで距離を保つために、作品というものを使うことができるんじゃないか、そういう実践が~離さんの活動なんじゃないかなと思ったんです。そういう距離がある世界からしか、セカイ系的な想像力みたいなものも多分始まらないわけで、僕や北出さんが~離さんに興味を持ってしまう理由もそこにあるのかなと。変にまとめみたいなこと言っちゃいましたが(笑)。

~離 いえ、すごい腑に落ちました。自分が初音ミクを使うことと、レーベルを運営することがつながっているとは自分では気づかなかったので。

音楽を作る人が次どういうものを作るか考えるときに、ある有名なレーベルから出したいから、そこに向けた曲を作るみたいなことが結構あるんですよ。周りのトラックメイカーの友達と話しても、「あそこのレーベルっぽいものを作れるように頑張ろう」みたいなことを言うので。でもそれってもったいないというか、自分は何か人が物を作るとき、その人のあくまで個人的な思いというか考えが100%純粋な形で出ているものが美しいと思っています。

レーベルに認められたいとか、そういう社会的な動機によって作られた作品って、あまり美しいと思えない。自分の好きなクリエイターに、余計な雑念を入れずに作品を作ってもらうにはどうすればいいかみたいな気持ちでi75xsc3eをやっていますし、それは確かに「距離」の問題として、自分が初音ミクを使うことと一緒に考えられるかもしれないなと。

布施 なるほど。これ、以前自分が書いた「新しい孤独」って文章に僕の中ではつながるんですけども、この話をすると~離さんを自分の文脈に巻き取りすぎてしまうなと思ってしまって……どうしようかな。

北出 それは自分もすごくお聞きしたいのですが、布施さんは今日外からつないでくださってるんですよね?(編註:布施さんは当日、急遽決まったトークイベントに出演していた)。電車の時間もありますし、今日はここまでにしておきましょう。また改めて機会を設けられたら嬉しく思います。本日はありがとうございました!

布施琳太郎 プロフィール

1994年、東京生まれ。アーティスト。恋愛における沈黙、情報技術や詩によってアナグラム化された世界、そして洞窟壁画において変質する形態についての思考に基づいて、iPhone発売以降の都市で可能な「新しい孤独」を実践。絵画やテキストによる描写、展覧会や映像の編集などを、アーティスト、詩人、デザイナー、研究者、音楽家、批評家、匿名の人々などと協働して行っている。主な個展に「すべて最初のラブソング」(2021/東京・The 5th Floor)、「イヴの肉屋」(2022/東京・SNOW Contemporary)、参加企画展に「ニュー・フラットランド」(2021/東京・NTTインターコミュニケーションセンター[ICC])、「新しい成長の提起」(2021/東京藝術大学美術館)、「身体イメージの創造――感染症時代に考える伝承・医療・アート」(2022/大阪大学総合学術博物館)、キュレーターとしての展覧会企画に「iphone mural(iPhoneの洞窟壁画)」(2016/東京・BLOCK HOUSE)、「新しい孤独」(2017/東京・コ本や)、「ソラリスの酒場」(2018/横浜・The Cave・Bar333)、「The Walking Eye」(2019/横浜赤レンガ倉庫一号館)、「隔離式濃厚接触室」(2020/ウェブページ)、「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地[クリエイティブセンター大阪])、「惑星ザムザ」(2022/東京・小高製本工業跡地)などがある。

公式サイト: https://rintarofuse.com/

~離 プロフィール

2001年生まれ。新潟県出身。

https://twitter.com/riyuuuyu

 

いま「セカイ系」物語を書くということ――岬 鷺宮さんインタビュー(初出:セカイ系同人誌『ferne』)

このインタビューは、筆者である私、北出栞が2021年秋に自費出版した書籍「セカイ系同人誌『ferne』」に収録されたものです(書籍の通販ページはこちら)。取材のきっかけとなったライトノベル『日和ちゃんのお願いは絶対』が2022年3月10日に発売の5巻をもって完結することから、著者の岬鷺宮さんのご了承を得た上で転載します。ぜひ作品と併読する形でお楽しみいただければ幸いです。(『ferne』責任編集・北出栞)

※転載にあたって、Web上で読みやすくなるよう一部改行位置などを整えています。また、書籍刊行時に見られた脱字・統一表記の揺れなども修正しております(内容面の異同はございません)。

 

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『日和ちゃんのお願いは絶対』5巻・挿絵イラスト

 

「――まるで、世界が終わりたがっているみたい。/岬鷺宮が描く『セカイ系恋物語」。2020年に第1巻が刊行されたライトノベル『日和ちゃんのお願いは絶対』(電撃文庫刊)の帯に書かれた一文だ。いまこの時代にあえて「セカイ系」を打ち出し、著者もTwitterでそれを積極的に発信している。あまりに純粋なその姿勢に衝撃を受けると同時に、密かに頼もしさと連帯感を覚えていた。

その著者・岬鷺宮さんに今回コンタクトを取ることに成功。本誌の主旨を伝えたところ深く共感をいただき、インタビューの了承も快くいただくことができた。

岬さんは2013年に『失恋探偵ももせ』(同上)でデビュー。その後も男女問わず支持の高い丁寧な心理描写を武器に、ライトノベル作家として「学園もの」を中心に作品を発表してきた。中でも2018年に刊行を開始し、次巻(2021年8月現在)で完結を迎える『三角の距離は限りないゼロ』(同上)は、「このライトノベルがすごい!2019」新作部門で3位に選ばれるなど人気の青春ラブストーリー。この作品が『日和~』を世に問う上での、大きな試金石となったという。

セカイ系リアルタイム世代」の岬さんが高校時代に受けた衝撃に始まり、いま「セカイ系」を背負って小説を書くことの意味、自身の作品に影響を与えた作品まで。その言葉の数々は、究極的には「主観」の重なり合いにしかその正解(らしきもの)は見つからないという、セカイ系の本質を射抜くものだった。この本を手に取ってくださった皆さんなら、ここに記された言葉を読んで、この人の書く物語を必ず読んでみたくなるはずだ。

(聞き手・構成:北出 栞)

 

『日和ちゃんのお願いは絶対』PV

 

――「セカイ系リアルタイム世代」とのことですが、お生まれになった年と、「セカイ系」という言葉に出会った経緯を教えていただけますか?

 1984年生まれです。2001年、17歳のときに当時5巻まで出ていた『最終兵器彼女』に出会いました。部活の夏合宿に向かうバスの中で、友人に貸してもらって一気に読み切った記憶があります。

 「セカイ系」という言葉自体を知ったのは、おそらくゼロ年代の中頃だったと思います。2003年頃に大学で『最終兵器彼女』について取り扱った講義を受講していたのですが、その頃にはまだ「セカイ系」という概念は認識していませんでした。なのでおそらく、それ以降のことだと思います。経緯は正確には覚えていないのですが、それこそネット上で東浩紀さんや宇野常寛さん界隈の評論、批評に触れる中で、だったように思います。僕としては、(それが揶揄を含んだ呼び名であることは承知の上で)非常にしっくりくる命名であると感じました。確かに、あれらの作品を通じて僕が触れたもの、そこに描かれていたものを「セカイ」と表現するのは、意味、響き、字面の面で適切だったように思います。

 ちなみに、その言葉を知った段階で『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』は既読でした(『イリヤ~』は確か、『最終兵器彼女』に近い作品としてタイトルが挙げられているのを見て読んだ記憶があります)。その後、その名称に連なっている『ほしのこえ』などを順番に鑑賞していきました。

 

――最初からしっくりくるものがあったんですね。なぜ岬さんご自身は「セカイ系」に惹かれたのだと思いますか?

 なぜ惹かれたのかは、自分にとってもこの20年間とても重要なテーマでした。また、数多のセカイ系批評、評論が存在し様々な意見が交わされている中で、僕に提供できるものがあるとすれば、それは「当時その作品に心酔していた十代読者の主観」なのではないかとも感じていました。

 なので、ここからはあくまで一読者のまったくの主観であるという前提で、可能な限り当時のことを思い出してみようと思います。また、自分はセカイ系作品の中でも、特に『最終兵器彼女』に深く感銘を受けたこともあり、説明も主に『最終兵器彼女』と自分、の関わりの話になってしまいます。そのような偏りがあることを、あらかじめご容赦ください。

 まず前提として、当時の僕がどういう高校生だったか。

 2001年当時、僕は所属していた吹奏楽部の活動に夢中で、日々遅くまで仲間との練習に励んでいました。後にアニメ『響け!ユーフォニアム』が放送されはじめた頃、高校時代の友人から「当時の自分たちとほぼ同じ空気だぞ」なんてコメント付きでお勧めされたので、楽しく有意義であると同時にピリピリした毎日でもあったのかなと思います。また、当時初めて交際する恋人ができ、その相手との関係にも頭を悩ませる日々でした。

 漫画を読むことはあまり多くなかったものの、小説はよしもとばななさんや北村薫さんの作品をよく読み、それら以上にたくさん音楽に触れていました。当時好きだったのはアース・ウインド・アンド・ファイアーや、マーヴィン・ゲイなどのソウルやR&Bジョン・コルトレーンなどのジャズ。国内のミュージシャンでは、海外音楽に影響を受けたGRAPEVINETRICERATOPSNONA REEVESをよく聴いていました。それと同時に丹下桜さんも大好きだったので、オタク文化サブカル、両方摂取するタイプであったと思います。 

 『最終兵器彼女』は、そんな自分に一読で強い衝撃を与えました。山道を走るバスの中、読みづらかったのは間違いないですが、合宿会場に着くまでにそこにある全5巻を読破しました。友人たちも、濃淡の差はあれ興味を持って読んでいたように思います。衝撃は簡単には冷めやらず、合宿中もその話ばかりしていましたし、地元に戻ってからも新刊の発売を心待ちにする日々でした。最終話がスピリッツに掲載された際には、購入して部の仲間全員で読み、最終巻が発売になったときにも部室で皆で回し読みしました。中でも特にラストの展開には激しい衝撃を受け、2ヶ月ほどそれを引きずる生活をしました。

 岬 鷺宮個人としての「セカイ系との邂逅」はそのような経緯でした。

 では、なぜそこまで惹かれたのか。

 衝撃が強すぎるあまり当時は冷静な分析はできませんでしたし、むしろ作品を通じて受けたダメージを大切にしたい、という気持ちがあり客観的視点に立つこと自体を避けてきたところもあります。ただ今になって考えてみれば「それがあまりにも自分の恋愛の体感と合致していた」ことが原因であるように思います。もちろんそれは、作中で明白に描かれている恋愛のやりとりだけでなく、「セカイで起きていること」を含め、「高校生の恋愛における心象風景の描写」として正確であり、なおかつ心地好いものだったという意味合いで、です。

 当時の僕は、初めての交際が始まったばかりで恋愛経験が非常に不足していました。目の前にいる恋人、あるいは異性全般に対して多大な幻想を抱きつつ、少しずつ「無責任な憧れ」を抱くだけではいられなくなる。恋人同士、という人間関係が発生することで、相手の「理解できない」「受け入れられない」側面に気づき始める。

 同時に僕は、現実の「世界」に対しても同様のイメージを抱いていました。素晴らしい音楽や物語などの文化があり、ネットやラジオや雑誌の向こうに美しい景色がある。けれど、高校生になり様々な社会問題が見えてくる。

 そしてここで、やや論理の飛躍があるのですが、当時の僕は「恋人の向こうに世界を見る」という感覚を抱いていました。美しくも分からないもの、という共通点のあるその二つを、どこかで同一視していたのかもしれません。少なくとも、当時の僕にとって両者の「わからなさ」は同質のものであり、恋人と接するのを通じて世界にも接するような感覚がありました。そのような「無責任な憧れ」と「肌で触れるわからなさ」の入り交じった感覚を、極めて詩的に、自己陶酔可能な形で物語にしたのが「セカイ系」、あるいは少なくとも『最終兵器彼女』であったのではないか、と考えています。

 『最終兵器彼女』の最終巻、7巻のあとがきにおいて、高橋しん先生がこのように書いています。「彼女が最終兵器」という設定を思い付いた直後、それを様々な状況に当てはめて考えたというくだりで、

例えばそれを自分の妻に置き換えて考えたり、結婚する前の今より少しだけおばかさんな時代の私たちだったり。もっとおばかさんな、妻とつきあう前の自分のことだったり。例えば、人生の中で、「陸上部」と「恋愛」のことだけで生きていけたおそらく唯一の時代の、あの頃の僕らであったり。

 本編を読めば、作品の基本設定が「『陸上部』と『恋愛』のことだけで生きていけたおそらく唯一の時代の、あの頃の僕ら」を元にしていることはおわかりいただけると思います。そして、『最終兵器彼女』を読んだ頃の僕はまさに、部活と恋愛のことだけを考えていた。そういう意味で、僕は狙い澄まされたように『最終兵器彼女』の、想定読者のど真ん中であったのかなとも思います。

 さらに、ここであえて主観的な説明を逸脱すれば、当時まだ世紀末的な空気感が残っていたことも言及を避けられないと思います。ノストラダムスの預言やミレニアム、オカルトブームの名残など、どこかで「世界、終わるかもね」というぼんやりとした空気があった。実際僕自身、幼い頃にずいぶん熱心にノストラダムスの預言書の解説本を読みました。オカルトファンでもありました。ポスト・エヴァンゲリオン、ポスト・オウム真理教の時代ではありつつ、その時代の残り香があったことも確実に影響はあっただろうと考えます。

 

――とてもリアリティのあるお話でした。そうして岬さんに強い印象を残した「セカイ系」ですが、そのジャンルとしてのコアを岬さんなりに言語化するなら、どういったものになるかを教えていただけますか。

「SF的ギミックによって、詩的に隠喩された未熟な恋愛」

 上記の分析を経て、これが現在僕自身が考えている(狭義の)セカイ系のコアです。

実際に、上述した『最終兵器彼女』の最終巻あとがきで、高橋しん先生はこのように述べています。

ふたりの恋だけが、全てです。正しい正しくないなどは、意味を持たないし、リアリティーなど、ただ、それだけのためにあればいい。二人の気持ちだけが、本当であれば。「その恋」の前には、作家一人が考えたストーリーなど、所詮ウソにしか過ぎません。

 また、これまでの高橋しん先生のイラストがカラーで掲載された画集、『LOVE SONG 2002』(小学館刊)では、『最終兵器彼女』初代担当編集者である小室ときえさん、後任編集者である堀靖樹さんの証言として、

小:整合性に対するジレンマは、初期の頃、私にもありましたね。「先生、ここ、誰が侵略して来てるんですか?」とか聞いたこともあったけれど、「小室さん、恋愛モノなんですから」って先生はおっしゃって…。

堀:読者の中には読んでいて納得いかないって思う人も必ずいると思うんだけど、単純に、恋をしているふたりを引き裂くものが「戦争」だったという世界なんだよね。だから主に彼女の内面を描くまんがだったんだ。普通は絵で考えると難しいんだけど、その辺が高橋先生のうまいところなんだよね。

小:いろんなことがありましたけど、「恋愛」という形にしにくいものを、イメージとしてうまい具合に固定した、見事な作品のひとつと言えますよね。

という発言が紹介されています。つまり、少なくとも『最終兵器彼女』に限って言えば「未熟な恋愛」が主題であり、それを描くために「SF的ギミック」で「詩的な隠喩」をしているという構造なのではないかと考えます。

 僕が現在刊行中の『日和ちゃんのお願いは絶対』も、まさにその前提から始まり、現代的なチューニングをしながら展開している作品です。ヒロインが「絶対のお願い」という能力を持つというSF的ギミック。これは僕自身の中で、伊藤計劃さんの『虐殺器官』に出てくる「虐殺の文法」に近いものであると考えているものです。

 世界全体に起きる混乱は、ポスト冷戦時代的な「最終戦争」ではなく、「テロ」「災害」「感染症」を始めとした複合要因。主人公のキャラ造形も、当時よりやや好青年な(故に本心からは現実に向き合い切れていない)キャラに設定しました。コロナ禍以前に企画された、ということもありどれだけ現代の感覚をキャッチアップできているかはわからないのですが、根源の部分で「セカイの出来事は切実に描かれてはいるけれど、恋愛の比喩とも取れる」という構造を持っています。

 ただひとつ個人的に面白いと思うのは、この構造を逆に運用している作品さえ、セカイ系と認識されることがあることです。前述の伊藤計劃さんの『虐殺器官』そして『ハーモニー』は、『最終兵器彼女』とは逆。SF的な発想をよりつぶさに描くために、登場人物たちの感情を運用しているように思います。

 このことを指して伊藤さんが発言した内容が『伊藤計劃記録』(早川書房刊)においてこのように記述されています。

社会そのものが、テクノロジーを経由して、個に投影される、という。

だから、『虐殺』をセカイ系だという方もいらっしゃったんですけど、それはちょっと待て、違う、流入経路が逆方向だ、と(笑)。個がセカイに直結しているんじゃなくて、セカイが個に直結している。逆セカイ系なんです。

 何を「セカイ系」と呼ぶかは、もちろん確定した定義など存在しないとは思います。ただ体感として、僕は『虐殺器官』『ハーモニー』のような本来「逆セカイ系」である作品が「セカイ系」と呼ばれることは、現状少なくなくなっているのではないかと思います。よって、

狭義のコア:「SF的ギミックによって、詩的に隠喩された未熟な恋愛」
広義のコア:「個人の感情と世界の出来事が、両者の描写を補完する構図」

という二重の定義が、現在ぼんやりとあるのではないかというのが私の意見です。ここはぜひ、北出さんにもどう思われているか伺いたいところです。

 

――ではお言葉に甘えて……とはいえ、狭義のコア、広義のコアともに、自分も岬さんと99%同じ見解なんです。ただ、その1%の違いが大きいかもしれなくて。それはおっしゃっていただいた「広義のコア」の「補完」……矢印で表すと「個人⇔世界」となる点について、自分は「個人→世界」という、一方通行を基本としたものだと考えているんです。つまり伊藤計劃さんの「逆セカイ系」は、まさに「逆」であるがゆえに、もっともセカイ系とは遠いところにある。

 ただ、個人と世界(の描写)が直結する、という意味では、古事記のような神話大系ですらセカイ系と呼びうるんですよね。そう考えると、テクノロジーの影響を受けて登場した「逆セカイ系」こそが、物語の歴史においては新しいものと言える。ですので逆説的ではありますが、そのような新しい物語を「逆~」という形で定義できるようにしたという意味で、ジャンルとしての「セカイ系」には歴史的な意義がある、という言い方ができるのかもしれませんね。

 そのご認識、非常によくわかります。僕個人が期待する「セカイ系」もまさに「個人→世界」であって、その逆の構造にある快感はもはや別物、という風に思っています。

 ただ、たとえば『天気の子』は、僕が拝見した限りでは新海誠監督の社会に対する問題意識に端を発し、その表象としての帆高と陽菜の関係性、さらには「天気を操る」という能力が描かれているように思われました。

 そうなると、北出さんの認識でいう基本的なセカイ系構造とは少しずれるように思います。そこでご意見を伺ってみたいのですが……ずばり、『天気の子』はセカイ系だと思われますか?

 

――『天気の子』はネットを中心に「俺たちの大好きだったセカイ系が帰ってきた!」と騒がれていましたよね(笑)。ただその中で僕が気になったのは、「原作として恋愛アドベンチャー版『天気の子』があった」といった与太話もある中で、「夏美ルート」とかを切り捨てた「陽菜ルート」があの映画なんだ、その上で「世界か、陽菜か」を選んでいるんだということが強調されていた点です。つまり「選択肢を切り捨てる」という「決断」の要素が、そこでは「セカイ系らしさ」とみなされていたんですね。

 しかし自分にはそうは思えない。岬さんのおっしゃった「未熟さ」という定義にもかかわってくるところだと思いますが、「個人→世界」のベクトルがある中で、主人公たちが「世界の終わり」に象徴される、何かおそろしいものに触れてしまう。その前で立ちすくむか、世界のルールそのものを書き換えてしまうか。この二つの方向性が、ともにセカイ系と呼びうるんじゃないかと思っているんです。

 個人の「決断」なんかでどうにかなるんだったら、「世界の終わり」なんてよくわからないものを描く必要なんてない。その意味では『天気の子』はルールの書き換えまでは行っていないし、せいぜい(とあえて言いますが)起きるのも東京水没くらいのものです。その意味でセカイ系ではない。

 ただ、セカイ系として読む道も残されていると思っていて、それは凪くん視点で観た場合です。凪くんからすると、自分の大好きなお姉さんがわけもわからず消えてしまって、その理由はどうやら帆高だけが知っている。あの作中において「世界の終わり」みたいな不条理がその身に起こっているのは、凪くんなんですよ。だから、「全部お前のせいじゃないかよ!」という凪くんの台詞に、僕は凝縮されたセカイ系を見ます。全体が帆高と陽菜を軸にしてセカイ系「っぽく」偽装されているからこそ、あの瞬間が輝く。

 北出さんから「不条理」という言葉が出てきたことに驚いています。というのも、自分が現在『日和~』を書く上で意識しているのも、まさに「不条理」というテーマだからです。

 正直なところ、僕の思う「純粋なセカイ系作家」は、時代に対する意義というよりも、読者個人に対してどのように作用するか、あるいは自身にとってどのような意味を持つかに意識を置いて作品を制作しているように思います。

 ただ、「詩的表現である」としても、現実にある世界の問題を描いている作品であることには変わりない。だとすれば、当然時代や社会に対する意義も問われるでしょう(実際、セカイ系に対する批判のうちの大きなものは、戦争や終末的状況を、あくまで「詩的表現」「恋愛の比喩」として使用している面に向けられていると感じます)。新海監督が『天気の子』でセカイ系的な構造を持ちつつも、監督自身の社会に対する意識を意図的に表面化させたように、僕自身も『日和~』に対して、同様の側面をきちんと持たせる前提で考えています。物語世界の中で起きている問題が、今の世の中とどのような共通点を持つのか。そしてそれに対して主人公がどのように考え、行動するのか。あまり細かく書くとネタバレになってしまうのですが、『日和~』の世界と現在の社会における共通点こそ、まさに「不条理」が一般に暮らす多数の人に対して切実な問題になりつつある、ということだと思っているんです。

 少し前にアルベール・カミュの『異邦人』を読み衝撃を受け、その流れで『シーシュポスの神話』『ペスト』と読み進めたのですが、最近自分自身が関心を持っている問題が(そして、実は『三角の距離は限りないゼロ』で少し前に軽く触れていた問題が)「不条理」という呼び名で論じられているということをようやく知りました。なので『日和~』は読者の主観にも近い感覚を持った主人公が、不条理にどのように向き合うか、という物語としても機能するようにしたいと考えています。

 ただ同時に、根本的に『セカイ系』は「不条理」と全く逆向きの感性です。それをひとつの作品の中で両立させたとき、どのような反応が発生するかは自分でも読めないままでいます。

 

――この本を作ろうと思った動機とも通ずるものがあり、心から共感します。『日和~』の企画当初のお話も改めてお聞きしたいのですが、なぜ、作家デビューされてから10年近くを経たタイミングで、セカイ系の王道的な作品を書こうと決意されたのでしょうか。

 自分自身の力量と、社会的な状況の両面からです。

 少なくとも僕がデビューした10年前は、ストレートにセカイ系を書いてそれが読者に響くことはあまり考えられない時代だったと思います。その後、なろう系を始めとしたファンタジーライトノベルが復興する中でも、セカイ系がそこに入り込む余地はなかった。また、僕自身の当時の力量では、憧れであるセカイ系を正面から、良い作品として書き上げることは不可能だったと思います。

 それが10年経ち、まず『三角~』で好評をいただきました。ライトノベル界で写実的な恋愛が受け入れられるという手触りと、読者との信頼関係が結べたという感覚。また、自分自身がそれを描く実力を手に入れられたという実感を得ることができました。新海監督が再度注目を浴びたことも大きかったように思います。改めて、「セカイ系」は現在の若者にも響くことが証明された。であれば、まずはこのタイミングで一手を打ってみるのが、僕自身の状況的にも市場の様子を見ても、適切だと考えました。

 もちろん、正解がどこにあるかはわからずあくまで「まずはストレートに」という感覚ではありましたが、一定以上の収穫はあったように思います。

 

――必ずと言ってもいいほど定義論争が巻き起こる「セカイ系」を自ら冠することにはリスクもあったと思います。『日和~』が「セカイ系」を大々的に謳った形で世に出ることになったのはなぜなのでしょうか。

 シンプルに覚悟の問題です。僕自身の中で20年間大切にしてきた「セカイ系」への気持ちを形にする上で、リスクやメリットやすべて織り込み済みのうえで真正面から斬りかかりたい。だからこそ自らそれを名乗りました。

 

――『日和~』執筆の後押しになったという『三角~』についてもお聞きしたいです。以前Twitterで「『三角~』はセカイ系の系譜にあるものだと思っている」とおっしゃっていましたが、これはどういった意味においてでしょうか。

 まず第一に、本来、記号化を前提とするキャラクターコンテンツにおいて、写実的な恋愛を描こうとしている、という意味においてです。ライトノベルにおいては恋愛自体も記号化されることが多く、描かれる感情自体がエンターテイメント的な類型の中に収まりがちです。そんな中で、キャラや記号化を用いて最終的に描こうとしているものが「現実の恋」「現実の人間」であるあたり、それをどこか感傷的に描いているあたりがセカイ系の影響下にあります。また、「人間本来が抱く矛盾、複雑さ」を「人格の乖離」というギミック、比喩に落とし込み陶酔可能にしている点でも、セカイ系的な構造を参考にしています。

 さらに言うなら、日本のオルタナティブロックバンドの曲、具体的に言えばGRAPEVINEの「光について」という楽曲の構造(メロディラインの機能や歌詞、演奏のディテール)を物語に置き換えるのが『三角~』の構造の基礎コンセプトなのですが、「光について」が発売されたのは1999年。全体として『三角~』は、世紀末からゼロ年代初頭の作品に近い感覚で制作されているのかもしれない、とも思います。

 

――『日和~』について少し細かい質問もさせてください。尾道が舞台になっていますが、大林宣彦監督作品からの影響があるのでしょうか? 思えば、新海監督の『君の名は。』も『転校生』オマージュといえる作品でした。

 非常に鋭いご指摘です。大いに影響があります。

 小学生の頃、学校の授業で大林監督作品である『ふたり』を鑑賞しました。今となってみれば王道のシンプルな青春ストーリーに見える『ふたり』ですが、当時自身があまりに幼かったせいで、ずいぶんと大人で洒落た、憂いのある物語に見えました。それはまさに、僕にとって「セカイ」に触れるような経験で、その舞台となっていた尾道にも「セカイ」の印象が強く結びついていました。だからこそ『日和~』の舞台に尾道を選びましたし、『ふたり』で見たような印象でその町を描きたいとも思っています。

(そしてやや余談ですが、その『ふたり』の主題歌になっていた大林監督、久石譲さんデュエットによる「草の想い」も非常に好きで、後に同じメロディラインが『紅の豚』の「帰らざる日々」で使用されているのに気づき、驚くとともに感動したのを覚えています)

 

――『三角~』や『日和~』を執筆するにあたって、養分になっていると感じる作品のタイトルを教えていただけますか。

 基本的に、音楽がかなり養分になっているように思います。若い頃に物語よりも音楽を多く摂取し演奏していたこともあって、自分自身の思考と音楽は切り離すことができません。意識しているところやしていないところ含め、様々な部分に影響が現れているだろうと思います。ちなみに、海外の楽曲を聴いてしまうと感覚が日本のエンタメ市場からずれてしまうような気がして、執筆期間中は可能な限り邦楽を聴くようにしています。

Bizarre Love Triangle / ニュー・オーダー
『三角~』の英語タイトルの元にもなった楽曲です(いきなり洋楽ですが……)。ニュー・オーダーのセンチメンタリズムは、90年代中盤に文化に憧れ始めた自分にとって「ああ、これがオリジナルなんだな」と思える匂いを感じるところがあり、原点の香りを嗅ぎたいときなどによく聴いています。作品にもその匂いを混ぜ込みたいとも考えています。

光について / GRAPEVINE
上述の通り、楽曲の構造を『三角~』の構造の参考にしました。ポップさとそうでない要素の組み合わせ方のモデルとしています。

遠くの君へ / GRAPEVINE
構造が「光について」であれば、精神性はこちらを参考にしています。アンニュイで切実で性的なこの楽曲の肌触りを、『三角~』では再現したいと考えていました。

ムーンライト銀河 / 相対性理論
最終兵器彼女』以外ではもっともセカイ系を感じるのが相対性理論の存在なのですが、その中でも特にセカイ要素を感じるのがこの楽曲です。

愛妻家の朝食 / 椎名林檎
前述の、初めて『最終兵器彼女』を読んだバスの中で、同じように部員内で回して聴いていたのが椎名林檎さんのシングル『真夜中は純潔』でした。その中でも僕はカップリングのこの楽曲が非常に好きで、繰り返し聞きながら『最終兵器彼女』を読んだため、当時の感覚の密接に結びついています。あの頃の気持ちを思い起こしたいときは、この楽曲を聴くようにしていました。

君の街まで / ASIAN KUNG-FU GENERATION
実は自分はあまりASIAN KUNG-FU GENERATIONを聴かないのですが、『日和~』の主人公である頃橋がいわゆるロキノン系バンドを好き、という設定があり、頃橋の内面を描くときにチューニングを合わせるため、この辺りの楽曲を意識的に聴くようにしていました。

音楽以外では、

悪の華 / ボードレール
『三角~』のテーマのひとつに「アンニュイ」があるのですが、そのオリジナルのひとつとして一時期繰り返し読みました。

ガラスの街 / ポール・オースター
自己の存在について、詩的かつ都会的かつ音楽的な筆致で思考する様は、まさに『三角~』の目指す空気感の一つの理想型でした。上述のニュー・オーダーとも似た匂いがするように感じます。

ストロボライト / 青山景
岬の思う恋愛ものストーリーのひとつの理想型です。ポップさとそうじゃない要素の組み合わせ方も素晴らしい。

かか / 宇佐美りん
最近デビューの作家の中で、もっとも衝撃を受けたのが宇佐美りんさんでした。それこそここ十年では一番かもしれません。特にこの「かか」の持つ強度に似た強さを、自作のヒロインに、特に『三角~』の秋玻/春珂に宿らせたいと思います。

 

――音楽的な構造を小説に落とし込んでいる、というお話を受けてお聞きしたいのですが、「セカイ系」を紡ぐ上での小説というメディアの強み、あるいは小説というメディアで「セカイ系」を紡ぐことの難しさはどういったところでしょうか。

 まずは強みに関して。「セカイ系」に対してのみならずではありますが、やはり「自意識」を文章の形で描けることが小説媒体の強みであるように思います。『最終兵器彼女』もそうですし、たとえば羽海野チカさんの作品もそうですが、漫画においてキャラクターの内面を文字として配置するのには、優れた作家であってもかなりの工夫を要するものであるように思います。また、そのボリュームも必然的に絞ったものになりがちです。もちろん、小説においても表現に力量や工夫、技術は必要なのですが、人の内面を景色に反映する傾向のある「セカイ系」を描く際には、小説という媒体はそのあたりに強みを持つように思います。

 逆に弱みは、その意識の反映された景色を「景色」として見せられないこと。ビジュアルとして、見せきることができないところでしょうか。『日和~』は(イラスト担当の)堀泉インコさんのお陰で完璧なイラスト化をしていただいており、僕自身十分以上の満足と感謝をしているのですが、全ての場面をイラスト化できるわけではありません。そこはやはり、現実的な弱みとしてあるように思います。

 

――ちなみに、同世代、あるいはご自身より下の世代で、「セカイ系」的な感性を持ち、それを作品に落とし込もうとしていると感じる(つまり、シンパシーを感じる)ライトノベル作家・小説家の方はいらっしゃいますか。

 それがいないんですよ。いや、いるのかもしれないんですが、今のところ見つけられていない。他の部分でシンパシーを感じる作家はいるのですが、セカイ系的感性を自作に落とし込む、という人を見たことがないんです。実はこれが、最大の問題かもしれません。

 

――いろいろと貴重なお話をお伺いでき、とても嬉しかったです。最後に、今後のご予定や目標を教えてください。

 今回、このようにインタビューいただけたことが非常に光栄でした。

 ゼロ年代の頃憧れた批評、評論に「セカイ系」を通じて関わらせていただけるなんて……ちょっと夢みたいな気分です。

 今後も、もちろん軸足はライトノベル作家としつつではありますが、より自分のポテンシャルを生かす形で活動の範囲を広げていくことができればと思っています。

 僕個人の目標は、20年前から変わらず『最終兵器彼女』のヒロイン「ちせ」と会うことです。自分で正面からセカイ系作品を書けば少しでも彼女に近づけるかと思ったのですが、まったくそんなことはなかった。次はどうやってあの子のいる場所へ向かうか、改めて考えている最中です。

(2021年8月、メールインタビューを再構成)

 

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