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セカイ系同人誌『ferne』Web版

インターネット・空気・コミュニケーション――ネット世代の表現者が見つめる〈セカイ系〉のポテンシャル(布施琳太郎×~離×北出栞)

北出栞と申します。〈セカイ系〉という言葉・概念にどうしても惹かれるものがあり、2021年秋に『ferne』という評論系の同人誌を個人制作しました。

制作の詳しい動機は本誌の前書きに譲りたいのですが、基本的な方向性としていわゆる「2次元」のキャラクターを中心とする「君と僕」の恋愛物語といった形式性に囚われない、〈セカイ系〉という響き自体に宿る質感のようなものを取り出したいという思いがあります。そのためにはおそらく、論評の対象を形式的なものとして(ひとまずは)切り取る批評の言葉よりも、「世界」との距離を探りながら作品という形に結実させていく、実作者の感覚の中にヒントがあるだろうと、制作中から感じていました。

そうした経緯から某日、現代美術領域でアーティストとして活動する布施琳太郎さんと、ミュージシャンの~離さんを招いて座談会を企画しました。批評や詩作など文筆も手がける布施さんは新海誠をはじめとした「セカイ系」作品への言及が随所であり(『ferne』にも素晴らしい寄稿をいただいています)、~離さんはボーカロイドを用いたEP『新世界空気系』を自身のレーベル・i75xsc3eの第一弾作品として2021年にリリース、「他者の存在を要請するセカイ系からの脱出。物語を放棄した個人は、原子となって空気系に取り憑く。」という概要文には「セカイ系」に対する独特の眼差しが感じられます。

それぞれに注目していたお二人は、布施さんが今年発表した映像作品《イヴの肉屋》に~離さんが楽曲・ナレーションで参加するという形で交錯。本座談会はちょうどその展示の前後に収録されたものです。お二人の作品や活動を読み解く上でも、また〈セカイ系〉の持つポテンシャルを広げる上でも非常に貴重な場になりました。ぜひお楽しみください!

布施琳太郎《イヴの肉屋》(2021)の一コマ。(撮影:北出)

セカイ系と「インターネット」

北出 本日はよろしくお願いします。まずはお二人のざっくりとしたセカイ系観、遍歴といったものからお伺いできればと思います。布施さんいかがでしょうか。

布施 『ferne』に寄稿した文章にも書いたんですけど、小4のときに新海誠の『雲のむこう、約束の場所』という作品をたまたま観る機会があって、それがセカイ系と呼ばれる作品に触れた最初の体験だったと記憶しています。この作品を忘れたくない、ずっと憶えていたいという気持ちに初めて自発的に思えた作品が『雲のむこう』だったんです。

そのあと中学生になって読む本なども自分で選ぶようになったときに、小説だと村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『海辺のカフカ』、アニメだと『新世紀エヴァンゲリオン』などに触れていく中で、自分の好きになる作品の傾向が大体わかってきて。そういうものをもっとたくさん観たいと思ったときに、どうやらセカイ系という言葉の下に紹介されている作品を辿っていくと、自分の趣味に合った作品に出会えるらしいと気づいたのが、僕にとってのセカイ系との出会いでした。

アニメにせよ小説にせよ、物語というものはいずれ終わってしまうわけですけど、終わってほしくないときにジャンルみたいなものが切ない気持ちを救ってくれる。僕にとっての「セカイ系」という言葉は、そんな感覚をもたらしてくれるものだったんです。

北出 「セカイ系と呼ばれているらしいと知った」というのは、作品名をGoogleに打ち込んでみたとか、そういう感じでしょうか。

布施 そうですね。というか、シンプルにウィキペディアとかだったと思います。あのページに影響された人はすごく多いんじゃないでしょうか。~離さんもたぶん読んだことがあるんじゃないかと思うんですけど。

北出 ページを見てみると、やたら東浩紀さんの本とかから引用されていたり。具体的な作品名は……そんなに羅列されているわけではないですね。

布施 あまり当時と変わっていない気がしますね。『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』、あと『エヴァ』があって、プラスちょっと『ブギーポップ』シリーズの話があるとか、そんな感じですね。

北出 ありがとうございます。~離さんはどうでしょう。

~離 自分の場合は、アニメを観始めたのがここ3年くらいで。

北出 へえ!

~離 2001年生まれで、そもそも『エヴァ』が一度終わってから生まれているので。肌感覚としてもアニメの歴史的な系譜というものをあまり感じずに育っています。最初にアニメを観始めたのも、「ツイッターでなんとなく気が合う人がだいたいアニメを観てるから、自分もアニメというものを観てみよう」みたいな感じで始まっていて。それで最初に観たのが『エヴァ』だったんです。

で、『エヴァ』についてツイッターでフォローしている人が語る際にセカイ系という言葉が使われていると。そこからセカイ系ってなんだろうと思って、それこそウィキペディアとかを見てなんとなく内容を知っていった形です。

そこから「この作品はセカイ系なのか?」とか、「セカイ系から影響を受けているのか?」とかっていうのを考えながら観るような視点が少しずつ育っていって、最近の作品で一番食らったのが『天気の子』でした。『天気の子』がセカイ系かどうかは議論の余地がありますが......。今でもサントラを毎日聴いて泣いています。

布施 セカイ系って、キャラクターや設定、ストーリーについて語られることはよくある一方で、音楽的なところで語られることってあまりない印象が僕自身はあるんですけど。~離さんは、『天気の子』の音楽そのものにキャラクターや物語とは違うところで惹かれる部分があったんですか?

~離 音楽そのものですね。アニメーション作品のサントラをよく聴くのですが、よりセカイ系的な雰囲気をまとった音楽だからこそ惹かれるというよりも、純粋に音楽としていいなって感じです。

北出 むしろ~離さんぐらいの世代では、アニメを観ること自体はすごく一般化してきたところがあると思うんです。そういう中で『エヴァ』に出会うまでアニメを観ずに過ごせたというのは……なんというか、運がいいですね(笑)。

~離 いえ! こんなに面白いものならもっと早くから観ていればよかったという気持ちでいっぱいです(笑)。インターネットを始める以前は、家庭や学校の友達とかにそういう文化圏の人が全然いなかったんです。アニメというものに対して偏見というか情報がない状態でいきなり『エヴァ』を観たので、アニメ鑑賞体験の礎になってしまったというか、後に見たアニメ作品もどうしても無意識に『エヴァ』と対比してしまうような、そういう基準ができてしまった部分はあるかもしれないですね。

北出 お二人の話を重ね合わせると、インターネットを経由して作品と作品を結びつけるものとして、セカイ系というワードが遍在しているってことですよね。そうなったときに、セカイ系とはそもそもは揶揄的な言葉だったみたいな話とかもウィキに書いてあったりするわけですけど、自分が好きなものがそういう風に論じられてるんだと知ってギャップが生じたりとか、ちょっとこれは違うんじゃないか、という風には思いませんでしたか。

布施 自分の大切なものが傷つけられているとか、虐げられてるっていう風には思わなかったですね。そもそもセカイ系という言葉を知った時点では、「本を読んで批評を摂取する」という仕組みを単純に知らなかったので。セカイ系という言葉の下に、『エヴァ』と村上春樹新海誠が並べられていることを、当時の自分は創造的な行為として捉えられていなくて。ですが宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』を高校生のときに読んだ際に、そこで「決断主義」とか言って、『ジョジョの奇妙な冒険』とか『DEATH NOTE』とか、複数の作品を紐付けて、一個の言葉で説明するみたいな態度に衝撃を受けた。それはやっぱり書籍という形だったからで、ネットを通じて触れているときは、セカイ系みたいな言葉と作品が繋がってることに対して、何か自発的な感想を持つまでは行けなかったなというのが正直なところです。

北出 なるほど。インターネット発の言葉だからこそ書籍という物理媒体に議論が集約されていることに意義があるというのは、編集者としては身に染みる話です。

セカイ系と「空気」

北出 ~離さんは『新世界空気系』というEPを出されていて。このタイトルはセカイ系の後に空気系があるという、ある種の批評的なストーリーもご存知の上でつけたんだと思うんですけど。

~離 批評の歴史は隠し味程度の意識でタイトルを付けました。でも確かにあのタイトルは、一種のセカイ系に対するアンチテーゼではあります。個人的にはセカイ系よりも空気系と呼ばれている作品で行われていることにすごく関心があるというか、共感できて。いわゆる「君と僕」という関係性がセカイ系の中ではあるじゃないですか。まず作品があって、批評の中で立ち上がってきたような定義だと思うんですけど、個人的にそういう関係性を描くことにしっくりこない気持ちがあります。自分が作品を作る側になったときには、そうではないものを作りたいと思っていました。

北出 確かに~離さんのコンセプト文にも書いてある通り、セカイ系は他者を必ず必要とするジャンルだという言い方もできると思います。布施さん的には、セカイ系の「君と僕」的な要素についてはどう捉えているんでしょう? ご自身の作品の中でもコミュニケーションの問題だったり、インターネット上における個人とか孤独とかそういったものをテーマにされていると思うので、振り返ってみて現在の自分の作風とセカイ系における他者性みたいな要素と、重なるところが取り出せるのかなと思って。

布施 直接の答えにはならないかもですが、自分は絵を描くこともあって、セカイ系を「距離」の話として解釈しているんです。「君と僕と社会」とかも同じ話だと自分は思うんですけど、絵画の画面というものは近くにあるものと遠くにあるものの距離を比較する形で構成される。だからこそ、近くにあるということと遠くにあるということの距離が何らかの仕方で壊れてしまっているような状況が表れている想像力……セカイ系に特別なものを感じるんです。

そして、僕が批評に初めて触れたときの経験も、ある意味セカイ系だったんだろうなと思います。いわゆるポストモダン以降の人間と言っていいのかもしれないですけど、目の前にある作品と、すごく遠くにある概念や歴史といったものを紐づけることができてしまう……セカイ系をはじめとした想像力を担保するものとして、今生きている僕たちはそういう能力を持っているように思っていて。目の前にあるものと遠くにあるものをパラフレーズしたり、距離やスケールを様々に入れ替えてしまうということ自体を象徴するのが、セカイ系という概念が潜在的に持っている力なのかなと。だからこそ『エヴァ』や新海誠は、東浩紀をはじめとしたポストモダン時代の批評家の人たちに言葉を紡がせ続けてしまったんじゃないか。

まとめると、距離を破綻させて、本来隣り合うはずのない様々なフレーズやスケールをつなげてしまう想像力としてセカイ系というものを自分は受け止めています。

北出 セカイ系がある時代を象徴する批評の対象というより、むしろセカイ系という概念自体が批評という概念とニアリーイコールであるということですよね。~離さんは今の話を聞いていかがでしょう。空気って身の回りを取り巻いているものですが、~離さんが空気系にのシンパシーを感じるのって、あらゆるものに対する距離がゼロになってしまったという感覚が、ご自身のリアリティとしてあるということなのかなと思ったんですけど。

~離 まず、自分が今のお話を聞いて思うのは、やっぱりインターネットのことなんですよね。私たちの目の前に今あるものって、パソコンとディスプレイじゃないですか。それらはすごく自分との距離が近いわけですよ。でもその中で見てる情報って、かなり遠いものも含まれる。自分は今帰省して新潟にいるんですけど、布施さんや北出さんはおそらく東京にいて。300キロの距離が離れているけれども、でもこのインターネットの場においては、その距離がゼロになっている。

アニメを観始めたきっかけがそもそもインターネットの人たちだったという話もそうですが、自分はインターネットを使うことが完全に日常的な動作になっていて。身体の一部といっても過言ではないかもしれません。遠いものと近いものの距離がゼロになるということがもはやネイティブというか、特別意識することもなく生活しています。

だからセカイ系において行われている距離を扱うことというのがあまり見えてこないというか、意識上にまで表れてこない部分があるかもしれないです。そんな中では自分にとってのゼロ距離、空気のようにすごく距離が近いものの変化のほうが意識的に捉えられる。

北出 そういう意味での「空気系」というか、そこでイメージされている「空気」を感じさせる作品って、具体的にはどういうものなんでしょうか。

~離 一番印象的だった作品は『〈物語〉シリーズ』です。原作は読んでいないので、原作のほうではもしかしたらまた全然違った印象かもしれないですけど。一応、阿良々木くんが怪異と出会って何やかんやありますが、結局そこで行われてることって会話劇じゃないですか。作品の語り方としては阿良々木くんの存在感が大きいわけですけど、でも舞台の直江津町は全国的に知られた町とは決して描写されていないし、阿良々木くんだって怪異と出会わなければ正義感が強すぎるだけの普通の高校生なわけなんですよ。

つまり、怪異と出会ったから物語が発生しているのであり、『〈物語〉シリーズ』において私たちが本当に見ているものは物語ではなく、阿良々木くんたちが行っている会話とか、新房監督や尾石達也さんによる視覚的な演出とかが醸し出す空気感のようなものなのではないかと。セカイ系作品にあまり共感できない中で、自分が捉えやすいものについて考えようと思ったときに、空気というものに関心が出てきたんです。

北出 なるほど。今の話を聞いて布施さんはどうですか。距離というものが消失してしまった中で、別の形で距離を作ることができないかということを常に思考して作品や活動に落とし込んでいると感じるんですが。

布施 セカイ系自体が持っている距離の問題みたいなものがありつつ、~離さんにとってセカイ系作品が実際に作られていた時代とご自身との間に距離があるという話でもあるなと思って訊かせていただきました。

改めて僕の話をすると、セカイ系がジャンルとして終わったとは、中学生のときには思っていなかった。でも、普通の話になっちゃうんですけど……高校1年生のときに東日本大震災があって。セカイ系の作品やSF小説を読んでいたので、「これで何か世界のルールが変わるんだ」と思ったんです。でも震災が起きてから1ヶ月、2ヶ月と経っていったときに、神奈川に住んでいた自分にとっては、意外なほどに「何も変わらない」という感覚が残ったんですよね。帰れなくなった高校のパソコン室で見た津波の映像とか、そういう視覚的なイメージの強さがもたらした衝撃は覚えています。それは、僕の手に負えないような仕方で、それまで当たり前だと思っていた生活とか社会のシステムみたいなものを変化させるんじゃないかと予感させたけど、少なくとも関東に住む高校生の自分にとっては、決定的な変化が起きたと感じられることがなくて。崩壊とかカタストロフのイメージというものと、現実の社会システムというものの間には物凄い乖離があるということを学ばされてしまった感覚があった。

僕は高校生くらいまで、自分は絶対にアニメやゲームを作ることを仕事にするんだって思っていたんですよ。でも、そういうこともあって、積極的に観たいと思うアニメも全然なくなって。その後、いわゆる美術の方面に行ったわけですが、「作品を作る」ということに対して自分が関心を持ち直せた理由は何なのか考えたときに、今となって思うのは、美術というものが、歴史に対するアプローチであることを自明としているからだなと。人間の身体が耐えられる時間の長さというのはせいぜい100年とかなわけですけど、歴史を前提にするってことは、100年とかのスケールで考えないということで。1000年とか数万年とか前のことと、ごく最近起きたことというのを、ひとつの問題系として捉える思考を許してくれるのが美術という感じがしたんだと思います。

北出 2011年を境に起きたことって、布施さんの言葉を借りると、スケールという概念自体が壊れたということなんだと思うんです。現地で家が流されていくといったイメージが手元のスマートフォンを通じてとても近い距離で感じられる一方で、自分自身の身の回りでは全然被害がない、という体験があった。SNS的な平面が唯一の「現実」を構成するようになってしまった中で、果たしてフィクションはどのような価値を持ちうるのかということを個人的にもずっと考えているんですが、美術という方法論でなら千年とか万年とかいったスケールを持ってこれるという発想は、ポップカルチャーの範囲でうろうろしていた自分にはなかったので目から鱗でした。

あと、観たいと思えるアニメが震災以降あまりなかったという話に関しては、アニメ視聴というカルチャー自体に質的な変化が起こったのもあると思っていて。震災をきっかけとしたSNSの普及と同調するようにして、アニメがリアルイベントを盛り込むといった形が定番化した。コロナ禍を経てまた少し変わるのかなと思いますけど、画一的な「現場感」を重視するような流れがあったんですよね。そう考えたときに、~離さんが『化物語』などに感じた「空気」と「現場感」との違いは何かという問いは考える余地があるし、もし異なるとして、そういう「空気」が今どこでどのように感じられるのかというのも興味深いポイントだなと思いました。

セカイ系と「コミュニケーション」

北出 ここで改めて~離さんの物作りのモチベーションというか、そもそも音楽を始められたきっかけをお伺いしてみたいです。

~離 最初に音楽を作ったときの記憶は全然ないんですよね。何か1曲を完成させて、最初の反響を観察しようってことが、モチベーションとしてあったわけじゃなくて。ソフトを触って、シーケンス的に部分を作るということを繰り返していたときに、これを曲と呼んでみようかという感じだったので、ぬるっと入ったというか。楽器も全然できないですしね。

そもそも自分の場合は、あまり音楽に対して特別な思い入れがないというか。それよりは制作を通して自分の考えていることを整理したり、考えていることをどのように作品に反映させるか実験したりといった作業に関心があるんですよね。普段考えていることとか、社会に対して思ってることを、自分の心の中からアウトプットする形としてたまたま音楽があったという感じなんです。育つ過程とか環境が違ったら別の手段をとっていたかもしれない、というのはちょっと思います。

北出 なるほど。ちなみに楽器も弾かないということは、やっぱりサンプリング的に素材を拾ってきて、加工して貼り合わせて作っていくという感じなんでしょうか。

~離 サンプリングは基本的にはしません。シンセサイザーをピロピロ弾いて、この音とかこのフレーズは気持ちいいな、と思ったら使っていく感じですね。

北出 メロディやコードを弾くわけではないけど、音を出す装置としてのシンセは使っているってことですね。初音ミクを使おうと思ったのは?

~離 初音ミクに関してはあくまで「言葉を付与することができるシンセサイザー」として使い始めました。考えていることを表現するという点で、言葉を使うというのはやっぱりやりたいなと思っていて。最初は自分で言葉を喋るというかラップをするみたいなことをやっていたんですけど、純粋にラップが下手すぎるというか、自分では歌いたくないなと思ったので、初音ミクだったらシンセサイザーとして気持ちのいい音が鳴るし、しかも言葉を乗せられるなんて画期的じゃん、と。

自分で書いた歌詞を自分で歌うなると、声に出して話さなきゃいけないわけで。たとえばヒップホップみたいな「リアルさ」というものが評価されるような場所においてはすごく重要だとは思いますが、自分は別にそうしたくはないというか。自分の考えている言葉が、自分の肉体を通して発せられる必要がない……つまり、自分の思考を自分の身体から切り離して存在させたい欲求があります。

やっぱり声って身体の一部じゃないですか。声帯を震わせて、人それぞれ独特の声が出る。ボカロを使って制作している人たちは、自分のやりたいこととか表現したい世界というものを、自分の体ではなく、ミクという身体を借りることで自分からの距離を取りながら表現することができるわけで、この点はそれぞれの事情にとっても都合がいいんだろうなと思います。

布施 初音ミクを使うというのは、自分から距離を取るということであって、自分が別の身体を手に入れるという感覚ではないんですか?

~離 そうですね。あくまで自分とは切り離された、自分ではない身体という感覚です。

布施 なるほど。だとするとVTuberとかもあくまで自分の身体から距離をとっているのであって、別の身体の獲得自体が目的じゃない可能性があるのかもしれないですね。

~離 VTuberって初音ミクの後に出てきたわけですけど、初音ミクの捉え方というか付き合い方が、逆にVTuberの出現によって変わったということも、ひょっとしたらあるかもしれないですね。

北出 僕は~離さんとは世代的にひと回り違っていて、この三人は布施さんを間に挟んで、ちょうど6歳ずつ離れてるみたいな感じだと思うんですけど。自分の体験として2007年ショックというか、YouTubeニコニコ動画初音ミクも一度に登場したときのことはよく覚えていて。当時大量に違法アップロードされていた深夜アニメやMAD動画と一緒に、初音ミクは盛り上がってきた。要はキャラクターコンテンツとしてってことなんですけど、個人的には〜離さんの言ったような楽器としての可能性に未来を感じていたんです。

ところがいま人気を博している『プロジェクトセカイ』の3Dライブなどを見ると、VTuberと同じような3Dモデリングモーションキャプチャーを使った、キャラクターがヌルヌル動く感じになっていて。距離感はむしろないというか、すごく素朴な意味でキャラクターとして愛される……アイドルとかと近くて、結局はそこに収斂していくんだなと残念に思ったりはするんですよね。

布施さんにこの流れでお訊きしたいのは、東浩紀さんやその周辺がひと頃熱心に論じてもいた、いわゆる「キャラクターアート」の流れについてです。布施さんはインターネット的なものに対するリサーチもしつつ、そういったものとは距離がある作風なのが、ある意味では独特だとも思っていて。布施さん的にはキャラクターという主題ですとか、コミュニケーションにおける人体やアバターの存在って、どういう風に捉えているんでしょうか。

布施 いわゆるアートにおけるキャラクターの話と、コミュニケーションにおけるキャラクターの話とがあると思うんですけど。前者については、まず村上隆というアーティストが、いかにして絵画の問題にキャラクターを落とし込むかというのをやりました。絵画史の中にキャラクターをどう位置づけるかを考えるために、近世以前の日本の絵画とアニメーションの画面構成を比較したりした。それに対して梅沢和木がやったことはまた全然違っていました。男性オタクがキャラクターにどうやって欲望しているのかという構造自体を、インターネットのアーキテクチャを含めて絵画化するという、エクストリームなことをやっていて興味深い。

しかしこうして図式化したときに違和感があるのは、キャラクターを取り巻く欲望を絵画の問題として扱うことが、消費者の代表に過ぎないようにも思えることです。あまり社会的な広がりを持ち得ていないのでは、と。

梅沢和木の達成について述べるなら、それは欲望の眼差しを成り立たせる情報環境のアーキテクチャを絵画化することに一定の水準を超えたところで成功したことです。ただ、アートが絵画にこだわる必要はないだろうとも思うんです。もっと音響的にオタクの欲望を再現するとかもあっていいと思うし、あるいはピクシブニコニコ動画に代わる全く別のプラットフォームを作るとか、いろいろな形での介入があり得るはずです。

もう一方の、コミュニケーションにおけるキャラクターという話については、キャラクターの造形に対してそんなに強い関心を払っていると思えない押見修造の作品とかにこそ自分は注目すべきだと思うんですよね。物語ということについて、コマ割りというシステムだったりだとか、連載漫画という形式の中でしかできないようなことをやっているので。これは新海誠もそうなんですよ。キャラクター造形自体がアニメ・マンガ的な、わかりやすく記号化されたものではないからこそ、物語が逆に複雑化している。

今の時代、人格はいくらでも分裂させることができて、複数持つことは当たり前だという感覚をみんなが持っていて……そういう感覚を物語の水準で体現している作品が、キャラクターの造形的にはむしろ保守的だったりすることは、面白いと思って見ていますね。

北出 VTuberまでいかなくても、いまはSNSアカウントというある種のアバターを誰もが持っていますからね。その同一性を保つことにみんなが雁字搦めになっているような時代なわけですけど、人間って本来状況とか、誰と喋ってるかによっても全然違う語り方をするものだし、前後の文脈とかも当然あるはずで。いまの話がキャラクターよりも「語り」を発生させるシステムに目を向けることが重要なんじゃないかみたいな話だとすれば、自分も腑に落ちるところがあります。

そう考えると~離さんが真っ白のグループチャットを運営している話にもつながるのかなと思うんですが、あれはどういう意図のもとやり始めたんでしょうか?

~離 現状として、発言の内容とか、ツイートした内容とか、「誰が言っているか」に引っ張られすぎているということがあると思います。すごく普遍的な話ですけど、「この人が言ったならこの話は正しいだろう」とか、「この人はあまり人気がないから言ってる情報も役に立たないだろう」とかいった判断がある。それが個人的にはすごくもったいないというか、情報自体に目を向けてないじゃん、と思っていて。だから、オープンチャットには、発言とか情報とかを、その発信者から解放しようという思惑がありますね。

北出 なるほど。運営されているレーベルもそんな感じですよね。読み方も……何と読めばいいのかわからないんですが。

~離 あれは正式な読み方以前に、名前は「ない」ことになっています。「i75xsc3e」はそれを認識するために便宜上与えられた文字列にすぎません。

音楽レーベルや音楽イベントには一般に、コミュニティを作る機能があると思うんですね。レーベルやイベントに、プレイする人も、ファンというか、消費する側の人も集まってコミュニティが形成される。それが楽しかったり、孤独が紛れたりする人も大勢いるでしょうし、大事なことだとは思いますが。ただそこにおいては、作品やイベント体験がそれ自体として受容されてないんじゃないかという風にもちょっと思って。それで作品とか体験を、コミュニティから解放するようなことをしたいなと。

多分シンボルがあるから人が集まってきやすいと思うんです。レーベルやコミュニティの活動を簡潔に表せて、しかもそれを他者へ容易く伝達できますから。だから自分のレーベルではそれとは逆に、名前やロゴといったシンボルを排除することによって集まりにくくしている。そうすることによって、作品を出すというレーベルとしての機能は備えつつも、コミュニティが作り出されることを阻害したいという目論見があります。

そして、作品なり発言なり、そういった情報を個々の人間とか、それぞれのコミュニティから解放したいという、その点でオープンチャットとレーベルはつながっていますね。だからオープンチャットはレーベルからのリリースという扱いになっています。

布施 僕なりの解釈を言わせてもらうと、~離さんが初音ミクという、自分自身の声ではないものを使うことによって書かれた言葉と自分自身との間の距離を取り戻したのとは逆に、作られた作品がひとつのコミュニティの中にあったとき、自分と同じ曲を聴いている他者たちとの境界線が失われてしまう。他者との境界が失われる悦びに陶酔したいから、人はコミュニティを作るんだと思うんです。だけど、~離さんの活動を通じて感じるのは、単に境界を失うために音楽を聴いたり、コミュニケーションをするということではない。自分はそこにひとつの距離が生まれているように感じられて、それに心地よさを感じたから、そういう気持ちを大切にしたいと改めて思ったというか。

なんでこんなことを言うのかというと、僕もTwitterとかのアカウントを介したコミュニケーション、そこで扱われる言葉というのはまさに~離さんが言うように、情報そのものではなくて、その人の言う発言や世界観というものに共感できるかできないか、ということだけでなされているように思うんですね。言い換えると、「自分とこの人の間の距離を失ってたとしても大丈夫な人間かどうか」というのがコミュニケーションの基準になっている。ではそうじゃないコミュニケーションって何だろうと考えたときに、距離を失うということ自体に邁進していく社会の中で、ギリギリで距離を保つために、作品というものを使うことができるんじゃないか、そういう実践が~離さんの活動なんじゃないかなと思ったんです。そういう距離がある世界からしか、セカイ系的な想像力みたいなものも多分始まらないわけで、僕や北出さんが~離さんに興味を持ってしまう理由もそこにあるのかなと。変にまとめみたいなこと言っちゃいましたが(笑)。

~離 いえ、すごい腑に落ちました。自分が初音ミクを使うことと、レーベルを運営することがつながっているとは自分では気づかなかったので。

音楽を作る人が次どういうものを作るか考えるときに、ある有名なレーベルから出したいから、そこに向けた曲を作るみたいなことが結構あるんですよ。周りのトラックメイカーの友達と話しても、「あそこのレーベルっぽいものを作れるように頑張ろう」みたいなことを言うので。でもそれってもったいないというか、自分は何か人が物を作るとき、その人のあくまで個人的な思いというか考えが100%純粋な形で出ているものが美しいと思っています。

レーベルに認められたいとか、そういう社会的な動機によって作られた作品って、あまり美しいと思えない。自分の好きなクリエイターに、余計な雑念を入れずに作品を作ってもらうにはどうすればいいかみたいな気持ちでi75xsc3eをやっていますし、それは確かに「距離」の問題として、自分が初音ミクを使うことと一緒に考えられるかもしれないなと。

布施 なるほど。これ、以前自分が書いた「新しい孤独」って文章に僕の中ではつながるんですけども、この話をすると~離さんを自分の文脈に巻き取りすぎてしまうなと思ってしまって……どうしようかな。

北出 それは自分もすごくお聞きしたいのですが、布施さんは今日外からつないでくださってるんですよね?(編註:布施さんは当日、急遽決まったトークイベントに出演していた)。電車の時間もありますし、今日はここまでにしておきましょう。また改めて機会を設けられたら嬉しく思います。本日はありがとうございました!

布施琳太郎 プロフィール

1994年、東京生まれ。アーティスト。恋愛における沈黙、情報技術や詩によってアナグラム化された世界、そして洞窟壁画において変質する形態についての思考に基づいて、iPhone発売以降の都市で可能な「新しい孤独」を実践。絵画やテキストによる描写、展覧会や映像の編集などを、アーティスト、詩人、デザイナー、研究者、音楽家、批評家、匿名の人々などと協働して行っている。主な個展に「すべて最初のラブソング」(2021/東京・The 5th Floor)、「イヴの肉屋」(2022/東京・SNOW Contemporary)、参加企画展に「ニュー・フラットランド」(2021/東京・NTTインターコミュニケーションセンター[ICC])、「新しい成長の提起」(2021/東京藝術大学美術館)、「身体イメージの創造――感染症時代に考える伝承・医療・アート」(2022/大阪大学総合学術博物館)、キュレーターとしての展覧会企画に「iphone mural(iPhoneの洞窟壁画)」(2016/東京・BLOCK HOUSE)、「新しい孤独」(2017/東京・コ本や)、「ソラリスの酒場」(2018/横浜・The Cave・Bar333)、「The Walking Eye」(2019/横浜赤レンガ倉庫一号館)、「隔離式濃厚接触室」(2020/ウェブページ)、「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地[クリエイティブセンター大阪])、「惑星ザムザ」(2022/東京・小高製本工業跡地)などがある。

公式サイト: https://rintarofuse.com/

~離 プロフィール

2001年生まれ。新潟県出身。

https://twitter.com/riyuuuyu