ferne blog

セカイ系同人誌『ferne』主宰によるブログ

【座談会】セカイ系・日常系・感傷マゾ――フィクションと私たちの関係、20年間のグラデーションを探る(初出:セカイ系同人誌『ferne』)

この座談会は、本ブログの運営者である北出栞が2021年秋に自費出版した書籍「セカイ系同人誌『ferne』」に収録されたものです。書籍の販売は現在もウェブストアで行っていますので、ご興味おありの方はぜひチェックしてみてください(「セカイ系」をテーマにここでしか読めないインタビューや論考を多数収録しています!)。


以下に掲載する座談会のテーマは、「セカイ系」「日常系」「感傷マゾ」という、3つのフィクションジャンルのグラデーションを探っていこうというものだ。

なぜこの3ジャンルなのか。「日常系」は「空気系」とも呼ばれ、世紀末や2000年問題、米同時多発テロなど「世界の終わり」を予感させる空気が色濃く残る「セカイ系」の時代を超え、東日本大震災が起こるまでのどこか弛緩した2000年代半ば~後半、その存在感を示したジャンルである。一方、「感傷マゾ」は2010年代半ばに登場した比較的新しい概念で、感傷的な架空の田舎の風景にひたる自分自身をどこか自虐的に見てしまう受け手の姿勢を指したもの。「日常系」がアニメの中に描かれた風景を求める「聖地巡礼」を促したのに対し、「感傷マゾ」は「どこでもない」田舎を目指して旅をするという違いがあるのも興味深く、この3ジャンルの作品群について語ることで、時代に応じたフィクションとの距離感の変遷も明らかにできるのではないかと考えた。

お招きしたのは、筆者と普段からTwitter上で交流がある、同世代の信頼するお三方。同人誌ならではの「ゆるい」トーンでなされたことを踏まえつつ、ぜひお楽しみいただければ幸いだ。(司会・構成:北出栞)

注:本座談会は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の2度目の公開延期が決定し、上映を待つまでの期間に収録された。

自己紹介

北出 本日はお集まりいただきありがとうございます。まずはあいうえお順に、自己紹介からお願いできますでしょうか。

サカウヱ サカウヱといいます。もう10年ほど前のことになりますが、大学の卒論でセカイ系を扱いました。当時『秒速5センチメートル』まで発表していた新海誠と『エヴァ』の比較みたいなことをやって、その頃ぐらいまでのセカイ系についての議論はある程度調べたかなという感じです。ちなみに普段Twitter上では青い子症候群、不憫女子、負けヒロイン……そういったフレーズによく反応していて、ブログ記事にまとめたりもしています(笑)。よろしくお願いします。

ヒグチ ヒグチです。今日セカイ系と言われている作品との最初の出会いは、地元の長野にいるときに観た『ほしのこえ』です。「こんなものをひとりで作っている人がいるんだ」というのが何よりの衝撃でした。本腰を入れてアニメを観るようになったのは就職してからで、最初は『探偵オペラ ミルキィホームズ』のような「すちゃらか系」というか、女の子がわいわいする感じの深夜アニメにハマって。その流れで当時盛り上がっていた日常系アニメも観るようになって、今回呼んでいただくきっかけにもなった「日常系とは何か」という文章*1で、セカイ系と日常系をつなげて考えてみたりとか、アニメの演出についての文章をいくつか同人誌やブログに書いたりしている感じです。よろしくお願いします。

わく わくといいます。もともとアニメをたくさん観るほうではなかったんですけど、2015年に『心が叫びたがってるんだ。』(以下『ここさけ』)という映画にハマって、合計で30回くらい劇場で観たんですよ(笑)。それと同時期に人混みの多い観光地を避けて、ローカル線しか通っていないような「なにもない」場所に旅行するようになって。「成瀬順は不憫なんだけど、それをただ見ている自分はもっとクズだ」みたいなマゾヒスティックな成分と、感傷的な田舎という成分を合体させると「感傷マゾ」だ、みたいなことを友人たちと言い始めたんですね。それで「感傷マゾ本」という同人誌*2を作るようになって、2020年秋の文学フリマでvol.5まで出しました。よろしくお願いします。

北出 ありがとうございます。学年的には僕とサカウヱさんとヒグチさんが同世代で、わくさんが少し上かなという感じですよね。ヒグチさんとわくさんがそうですが、社会人になってからとか、『ここさけ』や『君の名は。』以降とか、2010年代以降にアニメをしっかり観るようになったという話をされていたのがこの4人のバランスとして面白いなと思います。

サカウヱ 自分たちの世代は、大学に入学したくらい(2007年頃)にニコニコ動画とかYouTubeとかが出てきた感じでしたよね。アニメ系のコンテンツを触る部分ではその前後でかなり違いがありそうです。

北出 そうですね。僕の自己紹介も兼ねて話しておくと、中高時代はアニメはあまり観ていなくて、BUMP OF CHICKENとかASIAN KUNG-FU GENRATIONとか、いわゆる「ロキノン系」のバンド音楽を聴くのが中心だったんです。で、大学に入学して、音楽をディグる延長でニコ動でボカロ曲を聴き始めて。そこからMAD動画なんかを経由して、『涼宮ハルヒの憂鬱』とか『ひぐらしのなく頃に』とかの深夜アニメを観るようになっていったんですよね。一方、セカイ系ということでいうと、『ほしのこえ』はある種のクラシックというか、教材として高校の図書館に入っていたんです。デジタル教育に力を入れている学校だったので、「今はパソコンひとつでこんなことができるんだ」という、ある種「高尚なもの」として観た記憶があって。で、それらがようやく結びついたのは、大学を卒業した後の2013年頃で。仕事をやめてしまい暇になっていたのもあって、ふと思い立って東浩紀さん周辺のいわゆる「ゼロ年代批評」を読み直したら、「こんなに面白いこと言ってたんだ、ニコ動とかセカイ系とか全部つながるじゃん!」と、めちゃめちゃ周回遅れで思ったんですよね(笑)。

だから年齢的にはセカイ系世代なんだけど、こんな同人誌を作っているのは「あの頃よもう一度」みたいなノスタルジー的な動機ではないということは強調しておきたい。今のインターネットって、個々の発信元が明確なSNSがメインの場になったこともあり、フィクションについて語ること自体がすごく難しくなっていると思うんです。そんな中、インターネットそのものが登場したばかりの頃に生まれた「セカイ系」の作品について考えることは、フィクションと現実、そしてインターネットとの距離感について改めて考える上で、大きなヒントになるんじゃないかという直感があるんですよ。

「社会に価値を感じにくくなった」10年間?

北出 ではまず最初に叩き台として、サカウヱさんにセカイ系についての整理をお願いしたいです。10年前の記憶を呼び起こしつつということで恐縮ですが(笑)。

サカウヱ 了解です。まずセカイ系という単語は、前島賢さんの『セカイ系とは何か』によれば、「ぷるにえブックマーク」というサイトのぷるにえさんという方が「エヴァっぽい作品」をひとまとめに呼ぶために思いついた単語ということでしたね。対象としては『最終兵器彼女』とか『イリヤの空、UFOの夏』などの、「ヒロイン or 世界(社会)」という二択を主人公に迫るタイプの作品。新海誠の『雲のむこう、約束の場所』(以下『雲のむこう』)はそれを明確に意識している作品ですね。主人公と幼馴染の男の子、あとヒロインがいるんですが、ヒロインがある日眠りについてしまって、よくよく調べてみたら北海道に突然出現した「塔」と連動しているということが判明する。ヒロインが覚醒すると塔が活性化して北海道が飲み込まれる――この原理も実際に飲み込まれていく様子も、すごく抽象的でふわっとしているのですが――から、「北海道をぶっ壊すか、ヒロインを目覚めさせるか、どっちか選べ」みたいな話になっていって、まさにそういうセリフを大人になった主人公に対して幼馴染の男の子が言う場面がある。

その上で、僕がピックアップしたいのは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下『破』、他の「新劇場版」についても以下略記)と『天気の子』です。『破』はみなさんご存じの通り、碇シンジ綾波レイを救うところで「ヒロイン or 世界」の二択がありますね。結果「ニアサードインパクト」が発生したことで人類はほぼ絶滅、世界が崩壊した後の光景を『Q』で見せられることになります。そして『天気の子』では、「天気なんて狂ったままでいい!」と主人公に言わせた上でヒロインを助け、その結果東京が水没する。ここ10年、「ヒロイン or 世界(社会)」というタイプの作品において明確にヒロインを選ぶことが増えてきているのは、それを肯定できるような世の中になってきている……つまり社会というものに対して価値を感じにくくなってきているから、「だったら今目の前にいるヒロインを助けよう」という主人公の決断に観客が共感しやすくなったからなんじゃないかと自分は思っています。

北出 「社会というものに対して価値を感じにくくなった」というのは、サカウヱさん的には『雲のむこう』から『破』を経て『天気の子』に至る15年くらいの間に、少しずつそうなってきたという感覚なんでしょうか。

サカウヱ まあ、僕がこの10年くらいで社会人になったからというのはあります。ちょうど就職のタイミングでリーマンショックがあったし、「あ、世の中よくなってきた」って感覚がなかなかないまま現在まで来ちゃったなという感覚はすごくあって。そんな中目に入ってきた作品を挙げてるので、ある程度恣意的にはなっているとは思うんですけど。

で、そんな風に社会の価値が縮まってきている中で、学校とかある街とか、社会からは隔離された舞台の中で女の子がたくさん出てきてわいわいしている、いわゆる「きらら系」の作品が人気を博していきました。同時期にアイドルものも流行りましたけど、ちょっと違うのは、こっちには社会的な要素が入ってくる。ライバルがいたり、運営がひどい会社だったり、あるいは本人の個人的な問題であったり、そういうものを乗り越えていった上で成功していく物語になっているんですね。現実の社会に生きている視聴者が、自分を投影しつつ応援できるというのがポイントだったんじゃないかなと。

ヒグチ 実際にアイドルを仕事にしている人ってすごく限られている。我々のやっている仕事を抽象的にしたものとして「アイドル」という仕事がちょうど良かったのかなと思うんです。その意味でアイドルと似ていると自分が思うのが「架空の部活」で、たとえば『ガールズ&パンツァー』の戦車道とか。こういう抽象化されたものを題材にした作品がヒットするのって、そういう抽象性に、視聴者の日々の仕事のつらいことだったり、喜びだったりを乗せることができるからなのかもしれません。

感傷マゾと日常系の「メタ視点」

北出 続いて「日常系」と「感傷マゾ」についても整理していきたいのですが、比較的新しい言葉である「感傷マゾ」から先に触れていこうかなと。「セカイ系」で言うところのぷるにえさんに当たるわくさんに(笑)、ぜひご説明いただければと思います。

わく わかりました。感傷マゾというのは、ざっくり言うと「失われた青春への祈り」みたいなものですね。よく青春に対する典型的イメージで、「麦わら帽子に白ワンピースの少女」とか「浴衣姿の女の子と夏祭りに行く」とか、そういうのがあるじゃないですか。そこまでコテコテの青春像・ヒロイン像を直球で描いた作品はそんなにないにも関わらず、そういう集合的無意識みたいなイメージを多くの人は持っている。だいたいの人は現実の青春なんてアニメやラノベに描かれるような劇的なものではないと分かって、青春との距離感を上手く取ってそのうち忘れていくんですが、そうでもない人もいる。「人は10代の頃に果たせなかったことに一生固執する」という言葉があるけれど、10代が終わって20代、下手すると30代になっても、「青春の頃に、恋人とこういうことをしたかった」という呪縛に囚われる人ってけっこういると思うんですよね。「私が今、人生をまともに進められていないのは、そのスタートの青春に躓いたからなんじゃないか。もし、あの時……」みたいな。その人の中では、会社や大学とコンビニを満員電車で往復するだけみたいな無味乾燥な現実と、そうではない概念じみた理想の青春を対比して、今の俺の現実はダメだみたいな自虐に陥りやすい。その自虐自体が次第に気持ちよくなっていく……というのが感傷マゾです。

その流れで言うと、自分は日常系とメタ視点の関係が気になっています。『ヨコハマ買い出し紀行』とか『神戸在住』のような90年代の日常系漫画を読むと、日常を営む人たちを観察するポジションに主人公が立っていて、あれは読者の視点に近いと思うんですよ。でも、ゼロ年代以降の日常系アニメでは視聴者の立ち位置にいるキャラクターはあまりいない気がする。

北出 なるほど。そこでヒグチさんにお話を聞いてみたいんですけど、ヒグチさんの書かれた「日常系とは何か」という文章は、まさに観客の視点にフォーカスしていますよね。観客の視点というものは、ヒグチさんの言葉でいうと「死者の目」であると。要は幽霊のような視点として、そこにはいないものの視点として日常を見る目線の存在が、日常系と言われる作品を規定しているのではないかという議論だったと思うんですけど。

ヒグチ そうですね。あの文章は平たく言うと「日常系をどうしてエモいと思うのか」について、「エモい」という状態にはメタ的な視点が必須なんじゃないかという話です。たとえば夕陽の射す砂浜で恋人たちが追いかけっこをしていたとして、本人は「これ、エモいな」とはなかなか思わないだろうと。単に青春的な行為をするだけではなくて、その青春を少し外側から見ている視点……追いかけっこをしている二人から少し離れて、たとえば光る波とか、夕焼けとか、そういうものを含めて、その空間自体を少し外側から見ないとやっぱり「エモい」って感情は生まれないと思うんですよね。

サカウヱ エモってもともと音楽用語ですよね。メロコア系のバンド、たとえばELLEGARDENのライブに行って、泣ける系の曲を聴いて「こんないい曲をみんなで盛り上がってちょっと泣けてくるな」みたいな。そういう空気のことを最初「エモい」って言ってたと思うんですよ。「こういう場にいる俺を上から見て、この状況エモい」と。

ヒグチ そう、そしてそれは日常系アニメの中にもあるんですよ。たとえば『ご注文はうさぎですか?』でココアのお姉さんがやってくる話とか、『けいおん!』のさわ子先生とか、『ゆゆ式』だったら“お母さん先生”とか。そういう形で、主人公たちの生活を外側から見る視点というのは必ず導入されているんです。「日常系アニメを観る」という体験が成立するには、画面の中で描かれている生活を少し外側から見る視点が必要なんじゃないかと。実は『ARIA』のアニメ版の監督だった佐藤順一さんも同じようなことをおっしゃっていて、「悪意のない世界観に関して、悪意のない世界を見て感動するってだけではなくて、その感動する自分に少し酔うところまでも視聴者は楽しみにしているはずだ。そのために演出を工夫して、そういう楽しみ方を後押ししていたんだ」という趣旨の話をされてるんですね*3

具体的な作品として特に挙げたいのは2013年の『GJ部』です。通常はさっき言ったように、作品の中にメタ視点となるようなキャラクターが導入されるんですけど、『GJ部』の終盤ではそれまで各話の最後に細切れに描かれてきたCパートが、実はすべて卒業式の前日を描いていたということが明かされる。つまり視聴者が観ていた本編はすべて回想だったということで、キャラクターたち自身が「これから先、何度もこの日々を青春として思い返していくんだろうな」というメタ視点を獲得していく終わり方になっている。つまり『GJ部』は、大人キャラクターとしてメタ視点の依り代を導入するのではなく、キャラクターたち自身が自分たちの青春をメタ視していくように変化したという意味で、日常系の洗練を象徴する作品だったと思います。

そしてその洗練の先にあるのが、いわゆるポストアポカリプスものだという考え方もできると思います。たとえば『少女終末旅行』。これはすでに滅んでしまった世界を、すでに静かになった時代から観察していく話ですけど、これは今まさに我々が暮らしている日常世界に対するメタ視点を獲得するために、日常世界がすでに滅びて過去になってしまったという設定を導入しているわけです。こうして日常系のメタ視点の獲得の仕方は10年の間に、キャラクターとして導入されるのか、当人たちの意識の中に導入されるのか、そして最終的には世界観設定の内に導入されるのかという形で推移してきたんじゃないのかというのが自分の見立てなんです。

わく それを聞いて、川端康成による「末期の眼」という文章のことを思い出しました。これは芥川龍之介の死に際して書かれたもので、「人間が死ぬ直前になると、さまざまなものが美しく見えてくる、そういうものを文学は書くべきなんじゃないか」と、ざっくり言うとそういう話をしているんですね。ヒグチさんの「死者の目」……メタ視点から見たときに日常が美しく見えてくるという話は、「人生から見たメタ視点」の立ち位置、「死」みたいなところから人生を見ると美しく見えてくるというのと近いのかもしれません。

「虚構エモ」について

サカウヱ エモの話でいうと、僕は『感傷マゾ本』vol.1の座談会*4に出てきた「虚構エモ」という単語にピンとくるものがありました。数年前に清涼飲料水系のCMでやけによく見た「青春だ!」みたいなイメージと一致するというか。

わく 虚構エモは、ざっくり言うと感傷マゾからマゾ的要素を抜いたものですね。サカウヱさんのおっしゃった座談会で、「感傷マゾという言葉でTwitter検索したら、単に嘘っぽいエモさを感傷マゾと呼んでいる人が多くて、感傷マゾに籠められた自虐的要素が少ない気がする」と僕が言ったら、友人のスケアさんが「それは感傷マゾというより、虚構エモと呼んだ方が適切かもね」と返したのが始まりです。感傷マゾ本に寄稿して下さる10代から20代の人の原稿やツイートを読むと、僕らのような30代のオタクよりも自虐的要素が少ないんですよ。かといって、現実ばかり見ているかというとそうでもなくて、作家の三秋縋さんとか音楽ユニットのヨルシカさんとかイラストレーターのloundrawさんとか、エモい要素を際立たせるタイプのクリエイターの作品には好んで触れている。

サカウヱ いろいろとハードな世の中における、「こういう世界だったらいいな」って憧れから出てるトレンドなんじゃないかという気もします。そういう意味では日常系に近いところもあると思う。

わく TwitterなどのSNSをやっていると「人生のネタバレ」がバンバン流れてくる、みたいな話ってありますよね。このまま生きていったら30代で年収何万円とか、老人ホームに入れたらまだラッキーなほうだなとか。割と大人の世代の人たちがそういうことをバンバンツイートするから、それをもとに10代の人たちも「あ、俺の人生ってこのあとこういう風になっちゃうんだな」って思っちゃうという。青春の中に現在進行形でいるはずなんだけど、どうしても「人生のネタバレ」をされちゃってるから、「これは儚いものだな」ということを彼ら自身もわかっている。だったら逆に茶番として青春をやろうみたいな、「現在進行形のメタ視点」みたいなものがあるような気がして。

でもそれは感傷マゾの自虐的な――どうしようもない過去の青春に対する時間的遠さに起因する――「仮定法過去のメタ視点」とはやっぱり性質が違うんですよね。「あの時、好きな女の子に声をかけていれば……」みたいなことを20代になっても悶々と悩むのとは、根本的に視点が異なる。虚構エモはどちらかというと、自分たちは青春アニメのキャラだと認識しつつ、ストーリーから逸脱しないキャラクターの視点に近いと思います。

北出 そもそも今の若い世代は「自分は今メタ視点に立っている」って言語的に意識することがあまりないんじゃないかと思うんですよね。Instagramなどの非言語メディアで「エモの最大公約数」が共有されているから、同じような映像・画像を目にしたときに「エモ駆動回路」みたいなのが自動的に発動するようになっているんじゃないのかなと。

サカウヱ コンテンツの作り手側も、それを意識している部分がありそうです。アニメ版『呪術廻戦』第2クールのED映像には、主人公の虎杖悠仁スマホで仲間たちが戯れているのを撮っているという体で、縦長の映像(画面全体に対して、左右の端が黒抜きになっている)が使われているんですね。このシーンは原作にはないし、そもそもあり得ないはずの光景――バトルものである本編の時間軸では、映像でキャラクターたちが着ている冬服の時期に、わいわい楽しくやれているはずがない――ということも含めて感傷的なわけですが……「カメラを向ける」ということは対象に対して自動的にメタ視点に立てるという意味で、視聴者にエモい感情を起こさせるために使いやすいモチーフなんですよね。

わく あえて言葉にするなら、「永遠的なものが、実は無常なものだなってわかった瞬間」が「エモ」なんだと自分は思います。たとえば僕が10年ぶりくらいに、自分が小学生の頃の小学校付近に行くとする。「自分が子供のころと全然変わってないな」というのは単なるノスタルジーですけど、あるところで実はその小学校がもう廃校になったとわかると、「自分の小学校のときの記憶は永遠にあると思っていたけど、それも消えていってしまうものなんだな」と感じる。永遠と儚さとのバランスによってエモが生まれるのかなという気はするんですよね。

「終わるセカイ」の心象風景

北出 なるほど。ここでセカイ系の話に強引に戻すと(笑)、セカイ系って、サカウヱさんが最初言ってくださったように「世界が滅ぶか、ヒロインか」みたいな、割とスパッとその世界が終わってしまう……かもしれないみたいなところを、物語のクライマックスとして前提にしているところはあると思うんですね。なので今わくさんがおっしゃったことも含め、「終わってしまう」ということに対する感覚の差異としてセカイ系~日常系~感傷マゾのグラデーションを記述できるんじゃないかと。

というのも日常系って、「卒業とか青春とかは終わるかもしれないけど、世界が突然終わったりはしないよね」みたいな、ある種の世界に対する信頼感みたいなものに支えられていた部分もあったと思うんです。でも一方で「世界はある瞬間に突然終わってしまうかもしれない」という感覚も人間は持つもので。セカイ系が最初に流行った世紀末付近はもちろん、『天気の子』を作った理由として新海さんが言っていたように、気候変動みたいなものによってそれまでの世界が「終わってしまう」という感覚は、今また強まっている。

サカウヱ 『天気の子』は「結局東京は沈むけど、人はそれに順応して生きていくよね」という話だと捉えています。水上バスとか走ってたじゃないですか。世界の形が変わって街が水に沈んだとしても、きっとそれに対して人は順応して生きていけるよってそういうポジティブなメッセージだなと僕は思ったんですよね。

ヒグチ 言い換えれば、『天気の子』のラストって「ニアサードインパクトは起こらなかった」という話ですよね。『ヱヴァ破』と『ヱヴァQ』にしても『天気の子』にしてもどちらも大ヒットしていて、その間に我々の世界に対する感覚が変わったのかもしれない。ヒロインを救ったら世界が終わってしまうと思ってたけど、それでも社会は生き物として、ダメージを受けてもまた回復していくという風に……。

2000年代~2010年代にもそれまでの常識から外れるような破壊的な出来事は何度もありましたよね。2001年にはニューヨークの世界同時多発テロ、2011年には東日本大震災、2020年には新型コロナウイルスによるパンデミック。ただそれは地球を丸ごと破壊してそれきりというようなものではなかったと思うんです。残された人たちがその傷跡をどういう風に補っていくかが、ずっと我々の頭の一部を占めているような、そういう被害だった。サカウヱさんが、セカイ系作品での世界崩壊描写はどこか抽象的だというお話をされていましたが、多分それはセカイ系作品で発生する世界崩壊は、現実世界の「世界」ではなく心象風景の「セカイ」の崩壊のことを指していたからなんじゃないかなと思うんです。

北出 逆に言うと、90年代末からゼロ年代前半にセカイ系と言われていたような作品、心象風景としての「世界の終わり」みたいなものに当時一定の説得力があったというのは、どういうことなんだろうなと思いますよね。

サカウヱ あの頃って21世紀に向けて終末思想みたいなものが流行っていましたよね。テレビでもよく心霊写真特集とかやってたし、「たけしのTVタックル」でやってためちゃくちゃなノストラダムスの予言解釈特集とか、宜保愛子とか、あとはオウムとか……カルト的なものの隆盛と、2000年に向けて漠然と「世界が終わる」みたいな雰囲気があって。しかも世界が終わることへの危機感より、ちょっと期待感みたいな雰囲気が強かった気がしますね。何かすごいことが起こるんじゃないかもしれない、みたいな。

わく 90年代の終末感って、そんなに現実の終末的出来事を反映したものでもなかったと思うんですよね。ノストラダムスの大予言は、五島勉が1973年に同名の著作を発表してから有名になったけど、その当時は東西冷戦という「もしかすると、人類が滅びるかもしれない」という現実の危機感があった。でも、ソ連の崩壊でその危機感はなくなった。日本もバブル崩壊やら阪神大震災やらがあったけど、それらは世界じゃなくて日本の衰退に繋がる出来事じゃないですか。どちらかというと、それらの国内の出来事によって終末願望が高まって、その願望を現実へと反映させようとしたというのが、90年代の終末感のような気がするんですよ。オウム真理教の事件も、そういうことだと思う。

その流れで言うと、当時『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を観て、シンジという個人の心象風景を世界の終末とリンクさせるのが画期的だと感じましたね。もちろん、探せばそういう作品は90年代より前にあったのかもしれないけど、当時は知らなかった。自分にとってセカイ系は、心象風景を世界に反映させるポスト・エヴァの作品群という印象が強かったですね。

新海誠と「ここではないどこか」

北出 昨年の夏、下北沢トリウッドで、新海誠作品を『彼女と彼女の猫』から『天気の子』まで一日かけてすべて上映するというイベントに行きました。そうしたら最後になんと新海さん自身がZoomで登場して、質問させてもらうことができたんです。そこで自分がしたのは「新海さんの作品には“アガルタ”という名前で時に呼ばれる、異界のような場所が必ず登場しますが、どういった意図があって取り入れているんでしょうか」という質問で、新海さんは「それは死の世界みたいなもので、フィクションの物語である以上、主人公やヒロインをそういう限界の地点まで連れていってあげたい。そこで大切なものを持ち帰って、現実を生き抜く糧にしていってほしい。それは『ほしのこえ』からずっと一貫しているんです」と、おおよそこのように答えてくださったんです。

新海作品では最初から心象風景というか、「死の世界」と「現実」が明確に切り分けられているんですよね。これは現実を生きている僕らとフィクション・物語一般との関係にも対応させることができると思います。僕が「セカイ系」というものにこだわっている理由は、そういう心象風景的なものが今すごく蔑ろにされているというか、そんなものを大事にするのは軟弱だ、現実逃避だみたいな風にともすると言われがちなことに対してすごく違和感があるからで。ひいては物語一般に対する信頼感みたいなものが、世の中的にすごくいま薄れていっているんじゃないかという問題意識があるんです。

わく 異界は、自分がいる場所と完全に隔絶しているのではなく、自分の心象風景というフィルターを通した場所だと思うんですね。「ここではないどこか」に対する憧れは、異界に対する理解よりもむしろ無理解から生じる自身の妄想に基づいている。インターネットは様々なものを接続して、場所を問わずにアクセス可能にしていく。そういう意味でインターネットと異界は致命的に相性が悪いと思います。でも、その状態が健全だとも思えないんですよね。異界という外部を失って内部しかない状態だと、どこに行けばいいのかも分からないし、Twitterで自虐ツイートを呟いていたら人生が終わりそうな気がする。

サカウヱ もうその人物がいる空間と、無関係な別の異空間が無関係に両立するみたいな話自体難しくなってきてますよね。冴えない主人公が学校から帰ってきて、パソコンを立ち上げて電脳空間みたいな別の場所へ完全な別人格として没入する、という筋書きの物語は難しくなってきている。『ソードアート・オンライン』がギリギリその役割を持っていたと思うんですけど、最近の同作の展開は、もう完全にゲーム内社会と現実社会の事情がリンクしちゃってますからね。

ヒグチ この20年でアニメがオタクだけのものではなく、若者の多くが自然に観るメディアに変化してきたことも要因のひとつかもしれないですね。心象風景の内側の対話劇ではなく、実際の身の回りの人々と関わることの具体的な苦しみにフォーカスすることも多くなってきたと思います。その中でセカイ系的な心象風景の描写の射程が、相対的に近くになってきたということなのかもしれない。

わく SNSの勃興も大きいでしょうね。今は、TwitterにしろYouTubeにしろTikTokにしろInstagramにしろ、ネットサービスを通して他人と常時接続しているじゃないですか。創作物における心象風景って、要は妄想の風景だと思うんですが、それは他者と隔絶した孤立状態でないとなかなか生まれないと思う。僕自身インターネットを始めたのは大学生になってからですが、ネット接続していない高校生の頃が、最も盛んに妄想していました。

北出 ひなびた温泉地に行って写真を撮り、SNSに気の利いた短文とともに上げるというわくさんのムーヴは、「SNSによって心象風景が薄れている」という現状への抵抗のように見える側面もあります。普段から概念としての「感傷マゾ」「虚構エモ」についてのわくさんのツイートを読んでいる僕らからすると、それこそ「感傷マゾ」とか「虚構エモ」の典型的な風景のようにわくさんの撮った写真が見えてくるんですよ。

わく 確かに僕が旅行先に求めているのは、ある種の心象風景ですね。僕も20代の頃までは京都とか奈良とか広島とか有名な観光地ばかり回っていたんですが、ある時、京都の市バスの中でぎゅうぎゅう詰めにされて河原町に向かっていると、気がついたんですよ。「あれ、今の状態は、東京で満員電車に乗って通勤しているのと大差ないぞ」と。それからひなびた温泉とか寂れた港町とか、なるべく、無味乾燥な日常の通勤風景とは根本的に異なる場所ばかり回るようになりました。僕の相互フォロワーの人には、感傷マゾの人以外に、廃墟や秘湯などを回る旅行アカウントの人もそこそこいるんですが、彼らも似たようなことを考えている気がします。みんな、労働への憎しみについて呟いていますからね(笑)。

セカイ系と「地形」の関係

北出 セカイ系的な作品が生まれやすい土地があるんじゃないかという話が、事前に軽く打ち合わせした時に出ましたね。ちょうど旅行の話が出たので、この点についても掘り下げられればと思います。

わく 自分は最近、米山俊直という文化人類学者が書いた『小盆地宇宙と日本文化』という本を読んでいて、そこでは「日本文化は地形を無視して単一文化として語られがちで、それを構成する単位が無視されがちである。盆地という独自の文化を持つ閉鎖的空間を一つの単位として、日本文化を見直せないか」みたいな話がされていました。セカイ系の話で言うと、地形によって「セカイ」の認識しやすさが異なるんじゃないか。周りを山で囲まれた盆地は閉鎖的空間だから、「セカイ」という言葉を使いやすい気がするんですよね。例えば、地平線が続くアラビアの砂漠でセカイ系は生まれるのかというと、セカイを区切る壁が存在しないから認識しにくいんじゃないかなと。

ただ、それらは物理的な壁であって、他に心理的な壁もありえるのではないかと思います。僕は千葉市という東京郊外の埋立地で生まれ育ったんですが、千葉県の千葉市から東京まではそれぞれの地域が分断されているんですよ。千葉市津田沼船橋、市川、浦安みたいな。それぞれ、地元と外部としての東京しかなくて、総武線で新宿や秋葉原に向かうことはあっても、別の千葉県内の駅に向かうことはほとんどない。日常生活でほしいものは地元で買えばいいし、それぞれの住宅地で友人の家に向かうとき以外は、別に用もない。そうなると、高校生の頃は「自分はずっと千葉市で埋没してしまうんじゃないか」という不安がありましたね。ここではないどこかに行きたくて、自転車で千葉街道を上って東京に向かおうとして、海浜幕張についたらすぐに帰るとかしていました。

サカウヱ 「どこ住み?」って聞かれて駅ベースで回答するのって大都市特有だと思うんですよ。自分は青森出身なんですけど、駅ベースで答えることはまずない。駅ごとに生活のコミュニティが括られているという意味で、大都市特有の「つながっているのに閉じた感じ」がセカイ系の想像力につながっているというのは理解できますね。

北出 路線図ってネットワークじゃないですか。要は辿っていけば必ずどこかに辿り着けるみたいなことで……僕はやっぱりセカイ系というのは、どちらかというとネットワークの外側にある「どこか」を目指すものであってほしいと思っていて、それこそ『君の名は。』じゃないですけど、「岐阜 or 東京」みたいな大きな対立を作りやすいところのほうが生まれやすいのかなという印象があるんですよね。

わく ネットワークから完全に隔絶していると、「ここではないどこか」に対する想像力も持ちにくいんじゃないんでしょうか。電車に乗れば東京に行けなくもないけれど、特別なイベントもないと行く機会もないくらいの地方都市の方が、セカイ系の想像力につながっている気がします。全くつながっていない場所への想像力を持つことって、難しいですよ。

サカウヱ 新海さんはどうだったんですかね。彼は長野県の小海というところの出身ですが。

ヒグチ 自分は長野県でも北陸寄りの盆地出身なんですが、新海さんの出身地の小海町は、長野県東部の高地ですね。盆地の人間の感覚だと、県境イコール山なので、自分の住んでいる場所とそうでない場所の境界線は山の輪郭で区切られてるんです。小海町とは標高がかなり違う(400~500メートル)ので、見えていた風景もかなり違うはず。

サカウヱ 長野も北と南で全然文化違いますよね。北陸寄りか、東海寄りか。青森も津軽と南部で分かれてて、やっぱりその境には山がある。コミュニティを切り取るファクターとして地形は重要だと思います。

北出 作者の住んでいた地域の地形が物語に影響を与えているという意味だと、やっぱり一番わかりやすいのは『進撃の巨人』ですよね。諌山創さんは、「故郷が山に囲まれているところだったから、壁に囲まれているところから出ようとする人の話を描いた」と明確に言っているので。

サカウヱ それでいうと『ゆるキャン△』もそうで、山梨という山に囲まれ切り取られた土地で話が展開していますよね。そこから志摩リンが静岡まで出かけるという話がアニメ2期では展開されている。一方で各務原なでしこは静岡から山梨に引っ越してきて、地形で分断されたコミュニティを行き来してる異端者なわけです。

ウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』という古典があります。西洋の昔話の構造分析をしている本なんですけど、登場人物が森に行く、というのが重要とされているんですね。森とは危険と隣り合わせの死の世界……つまり異世界だと。普段住んでいるコミュニティから森という異世界に行って、いろんな出来事が発生して、それをクリアした登場人物がまたもとのコミュニティに戻っていく。その過程の中で、登場人物が物語の冒頭と比べて成長したり変化する。こうした「行って帰ってくる」ということが物語を構成する基本要素になっている、ということを言っているんですね。

北出 まさしく新海作品にとっての「アガルタ」の効果ですね。新海作品の場合、変化した後の生き方については具体的に描写せず終わっていくんですけど。

わく 新海作品における東京の描写についても言うと、僕は『天気の子』で新宿のTOHOシネマズ周辺や池袋の繁華街の描写がされているのを見て、やっと自分が知る東京の描写が出てきたと思ったんです。特に『君の名は。』の瀧が住む都心のマンションとか新宿御苑のイタリアンレストランとか、普段の僕の行動範囲からかけ離れているので。

サカウヱ 僕が初めて上京したときは東北新幹線で東京駅着だったので、新宿を「東京」として認識したのはけっこう後になってからでしたね。新海さんの出身地から東京に来ると終点は新宿のはずなので、彼の作品では新宿が重要な街になっているんじゃないでしょうか。もし新海さんが東北出身もしくは東海道線沿いに生まれていたら、新宿ではなくて東京駅が重要な街になっていたかもしれないですね。

北出 いずれにせよ抽象的な「東京」なんですよね、新海作品の東京というのは。帆高の回想シーンで、「あの光の中に君がいたんだ」っていう、崖に自転車を漕いで行って、光がファーって海面を動いていくのを眺めるというのがあるじゃないですか。あの向こうに光輝く何かがある、「何か」でしかないけど何かはあるっていう。で、実際に物語が展開するのはその「どこか」である東京なんだけど、すごくローカルな新宿の話で。そういう意味では『天気の子』って「ここではない、どこか」を目指すタイプのセカイ系とは構造が逆って感じがするんですよね。「行ってみたら大したことなかった」みたいな話になっている。

チェンソーマン』、葛藤なき主人公像

北出 そういえば、現代の都市を舞台に貧しい少年を描いているという点で、漫画『チェンソーマン』が『天気の子』と比較されるのを見かけることがあります。

わく 自分がよく目にする『チェンソーマン』についてのフレーズは「令和のデビルマン」というもので。『デビルマン』の最終巻で、人間たちが牧村夫妻を拷問にかけるシーンがありますね。あそこで、主人公の不動明は自分が悪魔から守っていたはずの人間たちが、実は悪魔そのもののような行動を行うことに衝撃を受けてしまう。「正義のはずの人間こそが悪」というグノーシス的展開が『デビルマン』の特徴だと思うんです。

ヒグチ その辺りに、のちのセカイ系に繋がる要素を感じますね。主人公の中の葛藤が、人類の存亡をかけたものへと展開していく部分。実際『エヴァ』にもそれを思わせる描写はけっこう露骨な形で引き継がれていると思います。

わく そうですね。でもデンジが同じ状況に陥っても、不動明ほど人間と悪魔の関係に悩んだり、人間全体を守ろうとは考えないと思うんですよ。彼の欲求はすごく小さくて、「かわいい女の子と付き合いたい」とか、「美味しいご飯を食べたい」とか、そのくらいなんですよね。そして、ヒルの悪魔との対決で、「みんな偉い夢持ってていいなア!! じゃあ夢バトルしようぜ! 夢バトル!!」というセリフを言うように、デンジ自身が自分の欲求の小ささを自覚している。そこが不動明と根本的に異なるし、同時に現代の作品っぽいなとも思うんですよね。

サカウヱ そもそもデンジは世界がどうこうという問題について全く悩んでないんですよね。少なくとも物語開始当初のデンジにとっての望みって「いい朝飯が食えて、いい女の近くにいる」ことだけだから(笑)。そもそも親のせいで借金取りにこき使われる生活をしてただけのデンジにとって、社会とか世界って悩むほどの価値がない。だから「ヒロイン vs 世界」みたいな選択も生まれない。

わく よくセカイ系は「社会が描かれていない」と批判されることがありますが、最終的に社会とか世界よりもヒロインを選ぶことが多いというだけで、社会や世界の理不尽さに直面した際の悲しみや憎しみは、描かれている作品もむしろ多いと思うんですよね。僕が「ヒロイン vs 世界」みたいな選択の要素がある作品とか、『デビルマン』のようなグノーシス的展開の作品が好きなのもそういう理由です。だから、現実の社会は嫌いだけど、「社会には悩むだけの価値がある」と証明されてほしいというアンビバレントな気持ちがあります。

北出 前島賢さんの『セカイ系とは何か』に、セカイとカタカナで書くということは、これは漢字のいわゆる「世界」ってものではないんだ、それでもなお「セカイ」と言うんだ、みたいな反省意識が表れているんだという話があります。昨今の作品の主人公像に葛藤や反省の要素がなくなっていて、しかも読者の支持を得ているとなれば、今はセカイ系が流行っていた時期と比べて、葛藤や反省というもの自体を人がしにくくなっている時代だという仮定も成り立つと思うんですが。

サカウヱ そもそも悩むための参考になる社会規範が薄れてきていると感じますね。就職して、ずっと同じ会社で働いて、稼いだら家や車買って……みたいな画一的な日本的なライフスタイルがほぼ崩壊して、モデルケースになる「普通の生活」がなくなってきている。その一方で好きな生き方を選べる自由、みたいなこともよく言われますけど、本来選択すること自体大変なことだし、その選択による責任は完全に自己責任扱いになってきてますよね。

ヒグチ 選択ができること、できないことの格差はこれからの課題として、とても大きなものになっていくと思います。たとえばYouTuberみたいな成功への道がそれこそ誰にも開かれているとき、それを利用できないのは単純に能力の問題になってしまう。YouTubeの「好きなことで、生きていく」という2014年のコピーライティングに対して、「けしからん!」みたいな声ってすごく多かったと思うんです。今思えばあれば、そういう能力格差がフラットに可視化されてしまう世界観に対する、生理的な忌避感だったんじゃないかなと。

『天気の子』を社会の側から観る

北出 帆高はデンジとは対照的に、クライマックスで大きな「決断」をしています。晴れ女バイトで生活費を稼ぐ、というところまでは「現代的な貧困の中に生きる主人公」として彼をデンジと同じタイプの主人公として見ることもできるんだけど、能力の代償みたいなものが陽菜に返ってきたことによって、いきなり「世界か陽菜か」みたいな話をしだす。週刊連載の漫画と2時間の映画を比較するのも野暮かもしれませんが、そこに跳躍感があると僕は何度観ても感じるんですよね。

ヒグチ 「お金」という軸を噛ませることで、「世界か陽菜か」というセカイ系の図式を、現実世界のアクチュアルな問題に接続してみせたのが、僕が『天気の子』を最も評価している点なんですよね。帆高は「そりゃあ雨より晴れのほうがいいよ」と陽菜になんの気なしに答えるけど、我々の社会ってそういう「そりゃあコンビニは24時間開いているほうがいいよ」といったような素朴な便利さの肯定によって、誰かの心身を搾取しているということに無自覚ですよね。ステーキが1枚食べられるたびに、地球のどこかの水資源が消費されるという話はよく言われるけど、もっと身近なところにそういう小さな「世界か陽菜か」の二者択一があって、それらが集まってこの社会を作っている。そういう自分に連なる世界を、きちんと自分ごととして少しでも引き受けていかないと社会は良くなっていかないよ、という批判を『天気の子』に感じるんですよ。

北出 ヒグチさんのおっしゃることはその通りだと思いつつ、僕は晴れ女バイトをして、みんなが笑顔になっていくというあのシーンで毎回泣いてしまうんですよ。社会に居場所がなかった子供たちが笑顔になっていって、周りの人たちにも感謝されて、結婚式で一緒に写真を撮ったり、幼稚園児がありがとうと言って小銭をくれたりするみたいなのを見ると、「ああ、よかったな」って素朴に思ってしまうんです。この映画が「人はみな資本主義社会の中に取り込まれている、そこから目覚めろ」って話だと言われたら否定はしないんだけど、僕はあの、一番最初にありがとうって言われた瞬間の陽菜の輝くような笑顔を、「資本に取り込まれていて、何も気づかない無垢すぎる少女」みたいには思いたくないというか。世の中のために少しいいことができたって思えた、自分のことを肯定できたその瞬間というものを、どうしても否定したくないという気持ちがあって。

凪が「全部お前のせいだ!」って最後言いますけど、僕はあのセリフに一番ぐっとくるんです。凪からしたら意味がわからないと思うんですよ、大好きな姉ちゃんが自分の知らない間に急に悟ったような顔をして、「凪をよろしくね」と帆高にだけ言って消えちゃうのとか。要は帆高と陽菜は社会の残酷な構造に気づいて、その責任を引き受けたってことなんでしょうけど、僕はどうしても社会とか世の中の複雑な仕組みとかもよくわからない子供の心の動きに寄り添いたいというか、素朴にその気持ちになって観てしまう。なので、とりあえず僕は陽菜が何を考えていたのかが知りたい、凪に代わって(笑)。

ヒグチ 新卒で入ったブラック企業で初めて勤労の嬉しさを知ることと、心身を消耗した結果周りの人々に何も言わずに失踪してしまうという事態は、両立してしまいますからね。前提として、陽菜に起こっていること自体は、実際にあり得ることなんじゃないかなと。

サカウヱ しかも、陽菜は年齢もごまかしてバイトしないといけないような状況じゃないですか。そんな状況を打破できそうな晴れ女業が、たとえ自分が大きなリスクを追うことだったとしても凪の生活のためには続けないといけないし、そして協力をしてくれた帆高にも悪いみたいな気持ちはあったんじゃないですかね。他に選択肢が見つけられなくて、そうするしかなかったみたいな気持ちというか。

北出 なるほどなあ……ちょっと人生相談みたいになって恐縮なんですけど、「大人の責任」みたいなことを最近すごい考えるんですよね。ヒグチさんの「女子高生が中心の日常系アニメを先生の視点で観る」という話にも通ずるかもしれませんが、大人は大人としての視点で作品を見なければいけない、あくまでそのアングルから何かを受け取って、仕事を頑張るなりして次の世代につないでいくのが責任なのかなみたいには思いつつ、どうしても子供の視点で見ちゃう自分ってどうなんだろうと……たとえば『プリキュア』を観た大人が、「プリキュアが頑張ってるように自分も仕事を頑張ろう」みたいに思うことはどうなのかってことなんですけど。

サカウヱ プリキュア自身に自分を重ねる必要は全くなくて、プリキュアから学んだ生き方とか、そういうものを自分の中で昇華して生きるってことが大事なんじゃないですかね。北出さんの考える次世代のために、というのはとても重要なことだと思うんですけど、漠然と誰かのためにって思ってもなかなか届いてほしい人に届かないと思うんですよ。

わく 大人が大人の立場を保持したまま話をしても、子供は聞かないと思うんですよね。もし話を聞くとしたら、大人が「自分の中の子供」というフィルターを通して話す時じゃないかな。

北出 ありがとうございます、胸に留めておきます。そして、ここまで話してきて改めて思ったんですけど、やっぱり僕が「セカイ系」という言葉に託しているのは、どちらかというと新海さんの言う「アガルタ」みたいな、心象風景的なもののことで。大人になってもそういうものを大切に持っていくことは、すごく大事なことなんじゃないかってことが、一番言っていきたいことだなって。

『天気の子』帆高は異色のセカイ系主人公?

北出 しかし、『天気の子』が盛んに「俺たちのセカイ系が帰ってきた!」みたいに言われていたとき、僕としてはセカイ系って「ここではないどこか」要素が重要だと思っていたから、みんな「決断」要素みたいなものをセカイ系だと思ってるんだなって驚いたんですよね。

ヒグチ 自分も「決断」要素がセカイ系の必須要素だというのは、指摘されて初めて意識したかもしれない。『最終兵器彼女』のように、主人公とヒロインの逃避行という要素が印象的だったからかな……。もちろん、セカイ系の男性主人公は戦闘能力を持たないことが多いので、現実世界のすべてを敵に回して戦うという選択肢が取れず、ヒロインを守ろうとすれば自然と逃避行という形を取るだけなのかもしれないのですが。

わく そういう選択肢はギャルゲーなどのシステム面に支えられていたと思うんですよ。プレイヤーが選択することによって物語が動くし、バッドエンドになれば罪悪感も湧く。でも今は、それらのゲームジャンルは衰退しているので、「少女とセカイのどちらを選ぶのか」みたいな話が今後も作られるのかは疑問です。

北出 でもギャルゲーが衰退したと言われる一方で――個人的には今こそ良い作品がバンバン出ている印象を持っていますが――『Detroit: Become Human』とか、選択肢的な想像力を取り入れた3Dのアクションゲームが世界的にヒットしていたりする。映画だと『アベンジャーズ:エンドゲーム』なんかもゲーム的な想像力を取り入れた話になっていて、「自由意志と決定論」が世界のフィクションで重要なテーマになっているんじゃないかという話は、非アニメ系のポップカルチャー批評においてはよくされている印象がありますね。

ところで、ギャルゲーの話が出たので思い出したんですが、サカウヱさんが注目している「負けヒロイン」の問題、これも可能世界的な想像力と表裏一体だと思うんですよね。「〇〇ルートもあったのでは?(でも、実際は違う)」みたいな。代表格と言われる『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)の美樹さやかは、僕も大好きなキャラクターなんですが、自分なりにその理由を述べれば、(暁美ほむら視点で)何度世界を繰り返しても最善手ならぬ最悪手を選んでしまう、選ばざるを得ない人への共感みたいなところがあって。

サカウヱ 美樹さやかに関して言うと、あの暁美ほむらによる有名な五七五のセリフ、「美樹さやか あなたはどこまで 愚かなの」っていうのがあるじゃないですか(笑)。基本的に愚かなんですよ、美樹さやかの選択って。ただあえてそれを描いた。物語的にきれいに美樹さやかの生き方を描くのではなくて、人間的に美樹さやかという存在に真正面から向き合っているのがすごくいいなと思ったんですよね。それに対して相反する、合理的な考え方を持った佐倉杏子が、最終的には共感を示して一緒に滅ぶという選択をしてくれるのも含めて。「負けヒロイン」だったり「不憫女子」だったりには、SF的というか、あまり一発逆転的な不思議なことが起こってほしくないと思うところがあるんです。なぜかというと、その人の生き方がその力によってガラっと変わってしまう可能性があるから。

北出 なるほど。今話してくださったことって、セカイ系作品が「人間」を描けるのかという問題とつながる気がします。セカイ系作品の主人公って、世界をどうこうするような大きな力を行使するか否かって立場に置かれることが多いわけですよね。そんなものを手にしたときになされる決断って、果たして人間的なものと言えるのか。超越的な、ある種人間ではない「何か」としてその決断をしている感じがあるので。

サカウヱ そういう意味では、負けヒロインや不憫女子はたとえ不思議なことが起こる世界観でも人間らしくあり続けるキャラクターの、ひとつのモデルと言えるかもしれませんね。『あの夏で待ってる』の谷川柑菜は、宇宙人の先輩が出てきたことで凡人感が際立つし、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』のイチゴも、ゼロツーという超人が出てきてしまったから凡人感がさらに際立ってしまう。『まどマギ』だと、美樹さやか鹿目まどかは一見同じような凡人なんだけど、鹿目まどか暁美ほむらのループによって「莫大な因果」を抱えた特別な存在だったということが最後に明らかになる。

で、単に能力を持っていないからいいということではなくて、「持ってないんだけど、頑張る」その姿が重要なんじゃないかと僕は思いますね。物語的に「負けヒロイン」って言い方をされるんだけども、そこに至る過程でそのキャラクター自体がものすごく頑張っていないと、そもそも勝ち負けもつかないわけですから。

北出 応援したくなるようなタイプのキャラクターってことですよね。自分と同一視はできない、でも好き……というこの距離感も、ある種メタ視点に立っているということなのかな。

わく セカイ系の主人公には、「少女か、世界か」ってモノローグでウジウジと悩んでるタイプが多いですよね。初期の新海作品の主人公がまさにそういう感じですけど、そんな主人公に僕は感情移入してしまいます。それに比べて『天気の子』の帆高は、1970年代のロボットアニメの主人公みたいな超熱血路線。あの「絶叫しながら山手線を走る」みたいなの、自分は正直ちょっと笑ってしまった……つまり感情移入できなかったんですが、頑張っている帆高の姿自体には好感が持てる。こういうタイプはセカイ系作品の主人公としては、ちょっと特殊な気がしますね。

まどマギ』『ウテナ』から考える、セカイ系ジェンダー

そこで『まどマギ』とセカイ系の関係を考えてみたいなと。この作品は女の子同士ですけど、最終的に「あなたがいれば世界なんてどうだっていい」みたいな話になっている。こういう作品もはたしてセカイ系と言えるのか。

サカウヱ 主人公と相手役の性別に関しては、全然どういう組み合わせでもいいと思います。ただ『まどマギ』は、まどかの能力が世界に直結していたじゃないですか。それを暁美ほむらがなんとか救おうとするまでがテレビ版で、そこをさらに超えていって実はさらに上の世界にほむらが接続していたというのが『叛逆の物語』の種明かし部分だった。

北出 『まどマギ』って映像的にも箱庭感があって、舞台装置の中でいかにメタを張っていくかみたいなゲームがなされている作品だと思うんですけど。そういう意味では、同じ箱庭感のある映像表現がなされていて、百合的な要素も含んだ作品として『少女革命ウテナ』(以下『ウテナ』)のほうが相対的にセカイ系的と言えると思います。というのも、アンシーが鳳学園を出ていくから。箱庭の中のあれこれ……性別に関係なく、二者関係が基軸にあることはセカイ系にとって重要だと思うんですけど、それが決闘を通じて色んなレベルで解体されて、最大の当事者であるアンシーがその外側……ウテナのいるであろう、「ここではないどこか」を目指して旅立っていく。『まどマギ』、特に『叛逆の物語』はすごく閉じた二者関係の話になっているので、「ここではないどこか」要素を重視するならむしろ「アンチセカイ系」とでも言うべき作品なんじゃないかと思っていますね。

わく なるほど。それを聞いて、韓国映画の『お嬢さん』という作品を思い出しました。日本の植民地だった時代の朝鮮を舞台に、日本人のお金持ちのお嬢さんのところに主人公の朝鮮人の女性がメイドとして仕えるようになる。二人とも最初は様々な違いから相容れないんだけど、実は二人は同じ家父長制の家に縛られているということに気がつく。最終的には、男たちが支配する家父長制の家から、お嬢さんと主人公のメイド、女性二人が抜け出して、船に乗って上海に向かう……という爽快感のある話なんです。こういう作品は、今だと「シスターフッド」みたいな言われ方をすると思うんですけど、いまおっしゃっていたようなところにフォーカスすれば、セカイ系に近いものはあるんじゃないかという気がしてきましたね。家父長制の家を、セカイ系における「セカイ」=限定されたある範囲、と考えると。

ヒグチ セカイ系の構成要素を「彼女を選ぶのか、世界を選ぶのか」という決断の要素と、「ここではないどこか」へ誰かと一緒に行くという要素の2つに分けて語っていくと、体系がクリアになっていくんじゃないかなと思います。

自分は『ウテナ』の延長線上にある現代のアニメジャンルは、やはり百合ものだと思っていて。そこで引き継がれているのは、『ウテナ』で言えば「世界の果て」と呼ばれている、男性が女性をトロフィーのように取り合って、女性をモノ化して扱うという構図の外に出ていくという要素です。『ウテナ』とよく比較される最近の作品に『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』がありますが、そこでは男性そのものは出てこない代わりに、男性的な役割は「キリン」が担っていますね。キリンは、女性たちが戦ってるのを舞台の外から眺めて、いろんな仕掛けを投入して意図的に盛り上げていく。

北出 ヒグチさんは、男性が『ウテナ』とか『レヴュースタァライト』とかを観る際に、自分自身が「世界の果て」や「キリン」である可能性を踏まえないのは、自己欺瞞的だと考えられているということですか?

ヒグチ そこは、作品世界に出てくる女性が、全員「女性」とは限らないですよ。「男性的」というのは「パターナリズム(父権的)」と言い換えてもいいですけど、そういう強権を振るう立場にいる女性も現実には存在します。それに我々だって、男性の身体を持っているからといって、100%「男性的」な精神や性質で生きているわけではないじゃないですか。男性の中にも「女性的」な部分はあるし、もっと言えば、その「女性的」な部分を拾い上げてくれるからこそ、女性キャラクターの物語を観て、男性である我々も感銘を受けることができるわけで。

まどマギ』の「魔法少女」も、たとえば新入社員の表象として見ることができると思うんです。新人の時は業界に希望や展望を持っていたが、今では当時の自分を忘れて新人いびりをしている……みたいな人って、かつて魔法少女だった魔女に似ていませんか。「女性 vs 男性中心社会」ではなく「希望を持った個人 vs 個人を搾取して回る社会システム」という枠組みを、男女ともに身近な「魔法少女」を通して描いたことで、広く共感を集める作品になったんだと思います。

セカイ系と親和性の高い、SFやファンタジーといったフィクションは、作品設定を使い、視聴者が男性か女性か、キャラクターが男性か女性か、作者が男性か女性か、といった垣根を超えて訴求する力があります。そういう力をもっと信じても良いんじゃないかなと。

北出 なるほど。個人的には先ほども言ったように、フィクション全般の力を解放する言葉として「セカイ系」を捉え直せないかという考えがあったんです。しかしいまヒグチさんがおっしゃってくださったように、「今、ここ」にある「社会」や「現実」を読み替えるフィクションの力というものもある。「ここではないどこか」を志向するセカイ系は、フィクションの可能性の一部であっても、その全体ではないということを、いまのやり取りを通じて改めて整理できた気がします。

まとめと展望

北出 そろそろまとめに入っていきましょう。セカイ系~日常系~感傷マゾのグラデーションを探っていく中で、特に浮かび上がってきたキーワードは2つあって、「メタ視点」と「ここではないどこか=異界」というものだったと思います。

わく 観客(視聴者、読者)が舞台(作品世界)に対してどういった視線を持っているのか、もしくはどういう距離感を持っているのかということが、その三つの分野をグラデーションとして語るときには使いやすい指針なのかなと思いました。観客から見た舞台というのはある種の異界だし、感傷マゾだったら「自分の不毛な日常生活とは違う青春」が異界になる。

その意味で、自分は今VRが気になっていて。『狼と香辛料』のVRアプリがすごく好きなんですけど、ヘッドマウントディスプレイを被ると僕自身が『狼と香辛料』の主人公・ロレンスの視点になるんです。VRの世界では僕の隣にヒロインのホロがいて、メタ視点を持たなければ「俺、実はロレンスなんじゃね?」と考えることもできるという。VRという技術を抜きにしても、VTuberであったり「バ美肉」であったり、ああいった事例が重要なのではないかと思っていて。自分自身が観客ではなく、舞台に出るようになる。そういう状況が当たり前になったときにどういう物語が求められていくのか。もしくは物語自体が求められずに、VRチャットでバ美肉おじさん同士が話してるとか、そっちのほうに集約されてしまうのか。僕はやっぱり物語が好きだから、そういう状況であったとしても求められる物語があると思いたい。三つの分野のグラデーションを考えることを通じて、これから来るVR時代にどんな物語があり得るのか考えてみたいと思いました。

ヒグチ VR映画というのもありますよね。自分が印象に残ってるのは5分くらいの短編で、車の中の視点でその車を使っている親子がどういう時間を過ごしてるのかを追っていくという話なんです*5。ネタバレになっちゃうんですが、お母さんが亡くなってるんですね。その亡くなったお母さんの視点で娘と旦那さんがどういう風に暮らしていくのかというのを点描的に追っていくという、まさに自分がお母さんの幽霊になったように感じられるという仕掛けになっている。これにはすごく感動したんですよね。

わく VRを絡めれば自分自身が「死者の目」そのものとして日常系アニメの中に存在できたりするわけで、既存のジャンルを拡張するという意味でも面白くなりそうですよね。

サカウヱ セカイ系について社会というものを絡めながら話すことができたのは、僕らの年齢的にも、昨今の世の中的なことも込みでいいタイミングだったんじゃないかなと。その上で個人的には、北出さんにセカイ系という単語の内容自体をアップデートしてもらうか、セカイ系として語られていた内容を別のステージにもっていってくれるような新しいフレーズを生み出してくれないかという期待を勝手にしています(笑)。

北出 頑張ります……! あえて『シン・エヴァ』公開前に収録した座談会でしたが、このタイミングだからこそできた話がたくさんあったと思います。本当に長時間、お疲れさまでした。ありがとうございました!

一同 お疲れさまでした!

(2021年1月、Google Meetにて収録)

*1:ヒグチ氏のブログ「あにめマブタ」に掲載の記事「日常系とはなにか ~死者の目・生を相対化するまなざし~」
https://yokoline.hatenablog.com/entry/2017/06/03/133012

*2:わく氏のBoothページからバックナンバーが購入可能。
https://wak.booth.pm/

*3:業界著名人がアニメ作品をオススメ! クリエイターズ・セレクション vol.10 監督:佐藤順一インタビュー(バンダイチャンネルhttps://www.b-ch.com/contents/feat_creators_selection/backnumber/v10/p02.html

*4:わく氏のnoteに全文が転載されている。
https://note.com/kansyo_maso/n/n365a0a449a89

*5:YouTubeでも映像が公開されている。「360 Google Spotlight Stories: Pearl」
https://www.youtube.com/watch?v=WqCH4DNQBUA