ferne blog

セカイ系同人誌『ferne』主宰によるブログ

いま「セカイ系」物語を書くということ――岬 鷺宮さんインタビュー(初出:セカイ系同人誌『ferne』)

このインタビューは、筆者である私、北出栞が2021年秋に自費出版した書籍「セカイ系同人誌『ferne』」に収録されたものです(書籍の通販ページはこちら)。取材のきっかけとなったライトノベル『日和ちゃんのお願いは絶対』が2022年3月10日に発売の5巻をもって完結することから、著者の岬鷺宮さんのご了承を得た上で転載します。ぜひ作品と併読する形でお楽しみいただければ幸いです。(『ferne』責任編集・北出栞)

※転載にあたって、Web上で読みやすくなるよう一部改行位置などを整えています。また、書籍刊行時に見られた脱字・統一表記の揺れなども修正しております(内容面の異同はございません)。

 

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『日和ちゃんのお願いは絶対』5巻・挿絵イラスト

 

「――まるで、世界が終わりたがっているみたい。/岬鷺宮が描く『セカイ系恋物語」。2020年に第1巻が刊行されたライトノベル『日和ちゃんのお願いは絶対』(電撃文庫刊)の帯に書かれた一文だ。いまこの時代にあえて「セカイ系」を打ち出し、著者もTwitterでそれを積極的に発信している。あまりに純粋なその姿勢に衝撃を受けると同時に、密かに頼もしさと連帯感を覚えていた。

その著者・岬鷺宮さんに今回コンタクトを取ることに成功。本誌の主旨を伝えたところ深く共感をいただき、インタビューの了承も快くいただくことができた。

岬さんは2013年に『失恋探偵ももせ』(同上)でデビュー。その後も男女問わず支持の高い丁寧な心理描写を武器に、ライトノベル作家として「学園もの」を中心に作品を発表してきた。中でも2018年に刊行を開始し、次巻(2021年8月現在)で完結を迎える『三角の距離は限りないゼロ』(同上)は、「このライトノベルがすごい!2019」新作部門で3位に選ばれるなど人気の青春ラブストーリー。この作品が『日和~』を世に問う上での、大きな試金石となったという。

セカイ系リアルタイム世代」の岬さんが高校時代に受けた衝撃に始まり、いま「セカイ系」を背負って小説を書くことの意味、自身の作品に影響を与えた作品まで。その言葉の数々は、究極的には「主観」の重なり合いにしかその正解(らしきもの)は見つからないという、セカイ系の本質を射抜くものだった。この本を手に取ってくださった皆さんなら、ここに記された言葉を読んで、この人の書く物語を必ず読んでみたくなるはずだ。

(聞き手・構成:北出 栞)

 

『日和ちゃんのお願いは絶対』PV

 

――「セカイ系リアルタイム世代」とのことですが、お生まれになった年と、「セカイ系」という言葉に出会った経緯を教えていただけますか?

 1984年生まれです。2001年、17歳のときに当時5巻まで出ていた『最終兵器彼女』に出会いました。部活の夏合宿に向かうバスの中で、友人に貸してもらって一気に読み切った記憶があります。

 「セカイ系」という言葉自体を知ったのは、おそらくゼロ年代の中頃だったと思います。2003年頃に大学で『最終兵器彼女』について取り扱った講義を受講していたのですが、その頃にはまだ「セカイ系」という概念は認識していませんでした。なのでおそらく、それ以降のことだと思います。経緯は正確には覚えていないのですが、それこそネット上で東浩紀さんや宇野常寛さん界隈の評論、批評に触れる中で、だったように思います。僕としては、(それが揶揄を含んだ呼び名であることは承知の上で)非常にしっくりくる命名であると感じました。確かに、あれらの作品を通じて僕が触れたもの、そこに描かれていたものを「セカイ」と表現するのは、意味、響き、字面の面で適切だったように思います。

 ちなみに、その言葉を知った段階で『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』は既読でした(『イリヤ~』は確か、『最終兵器彼女』に近い作品としてタイトルが挙げられているのを見て読んだ記憶があります)。その後、その名称に連なっている『ほしのこえ』などを順番に鑑賞していきました。

 

――最初からしっくりくるものがあったんですね。なぜ岬さんご自身は「セカイ系」に惹かれたのだと思いますか?

 なぜ惹かれたのかは、自分にとってもこの20年間とても重要なテーマでした。また、数多のセカイ系批評、評論が存在し様々な意見が交わされている中で、僕に提供できるものがあるとすれば、それは「当時その作品に心酔していた十代読者の主観」なのではないかとも感じていました。

 なので、ここからはあくまで一読者のまったくの主観であるという前提で、可能な限り当時のことを思い出してみようと思います。また、自分はセカイ系作品の中でも、特に『最終兵器彼女』に深く感銘を受けたこともあり、説明も主に『最終兵器彼女』と自分、の関わりの話になってしまいます。そのような偏りがあることを、あらかじめご容赦ください。

 まず前提として、当時の僕がどういう高校生だったか。

 2001年当時、僕は所属していた吹奏楽部の活動に夢中で、日々遅くまで仲間との練習に励んでいました。後にアニメ『響け!ユーフォニアム』が放送されはじめた頃、高校時代の友人から「当時の自分たちとほぼ同じ空気だぞ」なんてコメント付きでお勧めされたので、楽しく有意義であると同時にピリピリした毎日でもあったのかなと思います。また、当時初めて交際する恋人ができ、その相手との関係にも頭を悩ませる日々でした。

 漫画を読むことはあまり多くなかったものの、小説はよしもとばななさんや北村薫さんの作品をよく読み、それら以上にたくさん音楽に触れていました。当時好きだったのはアース・ウインド・アンド・ファイアーや、マーヴィン・ゲイなどのソウルやR&Bジョン・コルトレーンなどのジャズ。国内のミュージシャンでは、海外音楽に影響を受けたGRAPEVINETRICERATOPSNONA REEVESをよく聴いていました。それと同時に丹下桜さんも大好きだったので、オタク文化サブカル、両方摂取するタイプであったと思います。 

 『最終兵器彼女』は、そんな自分に一読で強い衝撃を与えました。山道を走るバスの中、読みづらかったのは間違いないですが、合宿会場に着くまでにそこにある全5巻を読破しました。友人たちも、濃淡の差はあれ興味を持って読んでいたように思います。衝撃は簡単には冷めやらず、合宿中もその話ばかりしていましたし、地元に戻ってからも新刊の発売を心待ちにする日々でした。最終話がスピリッツに掲載された際には、購入して部の仲間全員で読み、最終巻が発売になったときにも部室で皆で回し読みしました。中でも特にラストの展開には激しい衝撃を受け、2ヶ月ほどそれを引きずる生活をしました。

 岬 鷺宮個人としての「セカイ系との邂逅」はそのような経緯でした。

 では、なぜそこまで惹かれたのか。

 衝撃が強すぎるあまり当時は冷静な分析はできませんでしたし、むしろ作品を通じて受けたダメージを大切にしたい、という気持ちがあり客観的視点に立つこと自体を避けてきたところもあります。ただ今になって考えてみれば「それがあまりにも自分の恋愛の体感と合致していた」ことが原因であるように思います。もちろんそれは、作中で明白に描かれている恋愛のやりとりだけでなく、「セカイで起きていること」を含め、「高校生の恋愛における心象風景の描写」として正確であり、なおかつ心地好いものだったという意味合いで、です。

 当時の僕は、初めての交際が始まったばかりで恋愛経験が非常に不足していました。目の前にいる恋人、あるいは異性全般に対して多大な幻想を抱きつつ、少しずつ「無責任な憧れ」を抱くだけではいられなくなる。恋人同士、という人間関係が発生することで、相手の「理解できない」「受け入れられない」側面に気づき始める。

 同時に僕は、現実の「世界」に対しても同様のイメージを抱いていました。素晴らしい音楽や物語などの文化があり、ネットやラジオや雑誌の向こうに美しい景色がある。けれど、高校生になり様々な社会問題が見えてくる。

 そしてここで、やや論理の飛躍があるのですが、当時の僕は「恋人の向こうに世界を見る」という感覚を抱いていました。美しくも分からないもの、という共通点のあるその二つを、どこかで同一視していたのかもしれません。少なくとも、当時の僕にとって両者の「わからなさ」は同質のものであり、恋人と接するのを通じて世界にも接するような感覚がありました。そのような「無責任な憧れ」と「肌で触れるわからなさ」の入り交じった感覚を、極めて詩的に、自己陶酔可能な形で物語にしたのが「セカイ系」、あるいは少なくとも『最終兵器彼女』であったのではないか、と考えています。

 『最終兵器彼女』の最終巻、7巻のあとがきにおいて、高橋しん先生がこのように書いています。「彼女が最終兵器」という設定を思い付いた直後、それを様々な状況に当てはめて考えたというくだりで、

例えばそれを自分の妻に置き換えて考えたり、結婚する前の今より少しだけおばかさんな時代の私たちだったり。もっとおばかさんな、妻とつきあう前の自分のことだったり。例えば、人生の中で、「陸上部」と「恋愛」のことだけで生きていけたおそらく唯一の時代の、あの頃の僕らであったり。

 本編を読めば、作品の基本設定が「『陸上部』と『恋愛』のことだけで生きていけたおそらく唯一の時代の、あの頃の僕ら」を元にしていることはおわかりいただけると思います。そして、『最終兵器彼女』を読んだ頃の僕はまさに、部活と恋愛のことだけを考えていた。そういう意味で、僕は狙い澄まされたように『最終兵器彼女』の、想定読者のど真ん中であったのかなとも思います。

 さらに、ここであえて主観的な説明を逸脱すれば、当時まだ世紀末的な空気感が残っていたことも言及を避けられないと思います。ノストラダムスの預言やミレニアム、オカルトブームの名残など、どこかで「世界、終わるかもね」というぼんやりとした空気があった。実際僕自身、幼い頃にずいぶん熱心にノストラダムスの預言書の解説本を読みました。オカルトファンでもありました。ポスト・エヴァンゲリオン、ポスト・オウム真理教の時代ではありつつ、その時代の残り香があったことも確実に影響はあっただろうと考えます。

 

――とてもリアリティのあるお話でした。そうして岬さんに強い印象を残した「セカイ系」ですが、そのジャンルとしてのコアを岬さんなりに言語化するなら、どういったものになるかを教えていただけますか。

「SF的ギミックによって、詩的に隠喩された未熟な恋愛」

 上記の分析を経て、これが現在僕自身が考えている(狭義の)セカイ系のコアです。

実際に、上述した『最終兵器彼女』の最終巻あとがきで、高橋しん先生はこのように述べています。

ふたりの恋だけが、全てです。正しい正しくないなどは、意味を持たないし、リアリティーなど、ただ、それだけのためにあればいい。二人の気持ちだけが、本当であれば。「その恋」の前には、作家一人が考えたストーリーなど、所詮ウソにしか過ぎません。

 また、これまでの高橋しん先生のイラストがカラーで掲載された画集、『LOVE SONG 2002』(小学館刊)では、『最終兵器彼女』初代担当編集者である小室ときえさん、後任編集者である堀靖樹さんの証言として、

小:整合性に対するジレンマは、初期の頃、私にもありましたね。「先生、ここ、誰が侵略して来てるんですか?」とか聞いたこともあったけれど、「小室さん、恋愛モノなんですから」って先生はおっしゃって…。

堀:読者の中には読んでいて納得いかないって思う人も必ずいると思うんだけど、単純に、恋をしているふたりを引き裂くものが「戦争」だったという世界なんだよね。だから主に彼女の内面を描くまんがだったんだ。普通は絵で考えると難しいんだけど、その辺が高橋先生のうまいところなんだよね。

小:いろんなことがありましたけど、「恋愛」という形にしにくいものを、イメージとしてうまい具合に固定した、見事な作品のひとつと言えますよね。

という発言が紹介されています。つまり、少なくとも『最終兵器彼女』に限って言えば「未熟な恋愛」が主題であり、それを描くために「SF的ギミック」で「詩的な隠喩」をしているという構造なのではないかと考えます。

 僕が現在刊行中の『日和ちゃんのお願いは絶対』も、まさにその前提から始まり、現代的なチューニングをしながら展開している作品です。ヒロインが「絶対のお願い」という能力を持つというSF的ギミック。これは僕自身の中で、伊藤計劃さんの『虐殺器官』に出てくる「虐殺の文法」に近いものであると考えているものです。

 世界全体に起きる混乱は、ポスト冷戦時代的な「最終戦争」ではなく、「テロ」「災害」「感染症」を始めとした複合要因。主人公のキャラ造形も、当時よりやや好青年な(故に本心からは現実に向き合い切れていない)キャラに設定しました。コロナ禍以前に企画された、ということもありどれだけ現代の感覚をキャッチアップできているかはわからないのですが、根源の部分で「セカイの出来事は切実に描かれてはいるけれど、恋愛の比喩とも取れる」という構造を持っています。

 ただひとつ個人的に面白いと思うのは、この構造を逆に運用している作品さえ、セカイ系と認識されることがあることです。前述の伊藤計劃さんの『虐殺器官』そして『ハーモニー』は、『最終兵器彼女』とは逆。SF的な発想をよりつぶさに描くために、登場人物たちの感情を運用しているように思います。

 このことを指して伊藤さんが発言した内容が『伊藤計劃記録』(早川書房刊)においてこのように記述されています。

社会そのものが、テクノロジーを経由して、個に投影される、という。

だから、『虐殺』をセカイ系だという方もいらっしゃったんですけど、それはちょっと待て、違う、流入経路が逆方向だ、と(笑)。個がセカイに直結しているんじゃなくて、セカイが個に直結している。逆セカイ系なんです。

 何を「セカイ系」と呼ぶかは、もちろん確定した定義など存在しないとは思います。ただ体感として、僕は『虐殺器官』『ハーモニー』のような本来「逆セカイ系」である作品が「セカイ系」と呼ばれることは、現状少なくなくなっているのではないかと思います。よって、

狭義のコア:「SF的ギミックによって、詩的に隠喩された未熟な恋愛」
広義のコア:「個人の感情と世界の出来事が、両者の描写を補完する構図」

という二重の定義が、現在ぼんやりとあるのではないかというのが私の意見です。ここはぜひ、北出さんにもどう思われているか伺いたいところです。

 

――ではお言葉に甘えて……とはいえ、狭義のコア、広義のコアともに、自分も岬さんと99%同じ見解なんです。ただ、その1%の違いが大きいかもしれなくて。それはおっしゃっていただいた「広義のコア」の「補完」……矢印で表すと「個人⇔世界」となる点について、自分は「個人→世界」という、一方通行を基本としたものだと考えているんです。つまり伊藤計劃さんの「逆セカイ系」は、まさに「逆」であるがゆえに、もっともセカイ系とは遠いところにある。

 ただ、個人と世界(の描写)が直結する、という意味では、古事記のような神話大系ですらセカイ系と呼びうるんですよね。そう考えると、テクノロジーの影響を受けて登場した「逆セカイ系」こそが、物語の歴史においては新しいものと言える。ですので逆説的ではありますが、そのような新しい物語を「逆~」という形で定義できるようにしたという意味で、ジャンルとしての「セカイ系」には歴史的な意義がある、という言い方ができるのかもしれませんね。

 そのご認識、非常によくわかります。僕個人が期待する「セカイ系」もまさに「個人→世界」であって、その逆の構造にある快感はもはや別物、という風に思っています。

 ただ、たとえば『天気の子』は、僕が拝見した限りでは新海誠監督の社会に対する問題意識に端を発し、その表象としての帆高と陽菜の関係性、さらには「天気を操る」という能力が描かれているように思われました。

 そうなると、北出さんの認識でいう基本的なセカイ系構造とは少しずれるように思います。そこでご意見を伺ってみたいのですが……ずばり、『天気の子』はセカイ系だと思われますか?

 

――『天気の子』はネットを中心に「俺たちの大好きだったセカイ系が帰ってきた!」と騒がれていましたよね(笑)。ただその中で僕が気になったのは、「原作として恋愛アドベンチャー版『天気の子』があった」といった与太話もある中で、「夏美ルート」とかを切り捨てた「陽菜ルート」があの映画なんだ、その上で「世界か、陽菜か」を選んでいるんだということが強調されていた点です。つまり「選択肢を切り捨てる」という「決断」の要素が、そこでは「セカイ系らしさ」とみなされていたんですね。

 しかし自分にはそうは思えない。岬さんのおっしゃった「未熟さ」という定義にもかかわってくるところだと思いますが、「個人→世界」のベクトルがある中で、主人公たちが「世界の終わり」に象徴される、何かおそろしいものに触れてしまう。その前で立ちすくむか、世界のルールそのものを書き換えてしまうか。この二つの方向性が、ともにセカイ系と呼びうるんじゃないかと思っているんです。

 個人の「決断」なんかでどうにかなるんだったら、「世界の終わり」なんてよくわからないものを描く必要なんてない。その意味では『天気の子』はルールの書き換えまでは行っていないし、せいぜい(とあえて言いますが)起きるのも東京水没くらいのものです。その意味でセカイ系ではない。

 ただ、セカイ系として読む道も残されていると思っていて、それは凪くん視点で観た場合です。凪くんからすると、自分の大好きなお姉さんがわけもわからず消えてしまって、その理由はどうやら帆高だけが知っている。あの作中において「世界の終わり」みたいな不条理がその身に起こっているのは、凪くんなんですよ。だから、「全部お前のせいじゃないかよ!」という凪くんの台詞に、僕は凝縮されたセカイ系を見ます。全体が帆高と陽菜を軸にしてセカイ系「っぽく」偽装されているからこそ、あの瞬間が輝く。

 北出さんから「不条理」という言葉が出てきたことに驚いています。というのも、自分が現在『日和~』を書く上で意識しているのも、まさに「不条理」というテーマだからです。

 正直なところ、僕の思う「純粋なセカイ系作家」は、時代に対する意義というよりも、読者個人に対してどのように作用するか、あるいは自身にとってどのような意味を持つかに意識を置いて作品を制作しているように思います。

 ただ、「詩的表現である」としても、現実にある世界の問題を描いている作品であることには変わりない。だとすれば、当然時代や社会に対する意義も問われるでしょう(実際、セカイ系に対する批判のうちの大きなものは、戦争や終末的状況を、あくまで「詩的表現」「恋愛の比喩」として使用している面に向けられていると感じます)。新海監督が『天気の子』でセカイ系的な構造を持ちつつも、監督自身の社会に対する意識を意図的に表面化させたように、僕自身も『日和~』に対して、同様の側面をきちんと持たせる前提で考えています。物語世界の中で起きている問題が、今の世の中とどのような共通点を持つのか。そしてそれに対して主人公がどのように考え、行動するのか。あまり細かく書くとネタバレになってしまうのですが、『日和~』の世界と現在の社会における共通点こそ、まさに「不条理」が一般に暮らす多数の人に対して切実な問題になりつつある、ということだと思っているんです。

 少し前にアルベール・カミュの『異邦人』を読み衝撃を受け、その流れで『シーシュポスの神話』『ペスト』と読み進めたのですが、最近自分自身が関心を持っている問題が(そして、実は『三角の距離は限りないゼロ』で少し前に軽く触れていた問題が)「不条理」という呼び名で論じられているということをようやく知りました。なので『日和~』は読者の主観にも近い感覚を持った主人公が、不条理にどのように向き合うか、という物語としても機能するようにしたいと考えています。

 ただ同時に、根本的に『セカイ系』は「不条理」と全く逆向きの感性です。それをひとつの作品の中で両立させたとき、どのような反応が発生するかは自分でも読めないままでいます。

 

――この本を作ろうと思った動機とも通ずるものがあり、心から共感します。『日和~』の企画当初のお話も改めてお聞きしたいのですが、なぜ、作家デビューされてから10年近くを経たタイミングで、セカイ系の王道的な作品を書こうと決意されたのでしょうか。

 自分自身の力量と、社会的な状況の両面からです。

 少なくとも僕がデビューした10年前は、ストレートにセカイ系を書いてそれが読者に響くことはあまり考えられない時代だったと思います。その後、なろう系を始めとしたファンタジーライトノベルが復興する中でも、セカイ系がそこに入り込む余地はなかった。また、僕自身の当時の力量では、憧れであるセカイ系を正面から、良い作品として書き上げることは不可能だったと思います。

 それが10年経ち、まず『三角~』で好評をいただきました。ライトノベル界で写実的な恋愛が受け入れられるという手触りと、読者との信頼関係が結べたという感覚。また、自分自身がそれを描く実力を手に入れられたという実感を得ることができました。新海監督が再度注目を浴びたことも大きかったように思います。改めて、「セカイ系」は現在の若者にも響くことが証明された。であれば、まずはこのタイミングで一手を打ってみるのが、僕自身の状況的にも市場の様子を見ても、適切だと考えました。

 もちろん、正解がどこにあるかはわからずあくまで「まずはストレートに」という感覚ではありましたが、一定以上の収穫はあったように思います。

 

――必ずと言ってもいいほど定義論争が巻き起こる「セカイ系」を自ら冠することにはリスクもあったと思います。『日和~』が「セカイ系」を大々的に謳った形で世に出ることになったのはなぜなのでしょうか。

 シンプルに覚悟の問題です。僕自身の中で20年間大切にしてきた「セカイ系」への気持ちを形にする上で、リスクやメリットやすべて織り込み済みのうえで真正面から斬りかかりたい。だからこそ自らそれを名乗りました。

 

――『日和~』執筆の後押しになったという『三角~』についてもお聞きしたいです。以前Twitterで「『三角~』はセカイ系の系譜にあるものだと思っている」とおっしゃっていましたが、これはどういった意味においてでしょうか。

 まず第一に、本来、記号化を前提とするキャラクターコンテンツにおいて、写実的な恋愛を描こうとしている、という意味においてです。ライトノベルにおいては恋愛自体も記号化されることが多く、描かれる感情自体がエンターテイメント的な類型の中に収まりがちです。そんな中で、キャラや記号化を用いて最終的に描こうとしているものが「現実の恋」「現実の人間」であるあたり、それをどこか感傷的に描いているあたりがセカイ系の影響下にあります。また、「人間本来が抱く矛盾、複雑さ」を「人格の乖離」というギミック、比喩に落とし込み陶酔可能にしている点でも、セカイ系的な構造を参考にしています。

 さらに言うなら、日本のオルタナティブロックバンドの曲、具体的に言えばGRAPEVINEの「光について」という楽曲の構造(メロディラインの機能や歌詞、演奏のディテール)を物語に置き換えるのが『三角~』の構造の基礎コンセプトなのですが、「光について」が発売されたのは1999年。全体として『三角~』は、世紀末からゼロ年代初頭の作品に近い感覚で制作されているのかもしれない、とも思います。

 

――『日和~』について少し細かい質問もさせてください。尾道が舞台になっていますが、大林宣彦監督作品からの影響があるのでしょうか? 思えば、新海監督の『君の名は。』も『転校生』オマージュといえる作品でした。

 非常に鋭いご指摘です。大いに影響があります。

 小学生の頃、学校の授業で大林監督作品である『ふたり』を鑑賞しました。今となってみれば王道のシンプルな青春ストーリーに見える『ふたり』ですが、当時自身があまりに幼かったせいで、ずいぶんと大人で洒落た、憂いのある物語に見えました。それはまさに、僕にとって「セカイ」に触れるような経験で、その舞台となっていた尾道にも「セカイ」の印象が強く結びついていました。だからこそ『日和~』の舞台に尾道を選びましたし、『ふたり』で見たような印象でその町を描きたいとも思っています。

(そしてやや余談ですが、その『ふたり』の主題歌になっていた大林監督、久石譲さんデュエットによる「草の想い」も非常に好きで、後に同じメロディラインが『紅の豚』の「帰らざる日々」で使用されているのに気づき、驚くとともに感動したのを覚えています)

 

――『三角~』や『日和~』を執筆するにあたって、養分になっていると感じる作品のタイトルを教えていただけますか。

 基本的に、音楽がかなり養分になっているように思います。若い頃に物語よりも音楽を多く摂取し演奏していたこともあって、自分自身の思考と音楽は切り離すことができません。意識しているところやしていないところ含め、様々な部分に影響が現れているだろうと思います。ちなみに、海外の楽曲を聴いてしまうと感覚が日本のエンタメ市場からずれてしまうような気がして、執筆期間中は可能な限り邦楽を聴くようにしています。

Bizarre Love Triangle / ニュー・オーダー
『三角~』の英語タイトルの元にもなった楽曲です(いきなり洋楽ですが……)。ニュー・オーダーのセンチメンタリズムは、90年代中盤に文化に憧れ始めた自分にとって「ああ、これがオリジナルなんだな」と思える匂いを感じるところがあり、原点の香りを嗅ぎたいときなどによく聴いています。作品にもその匂いを混ぜ込みたいとも考えています。

光について / GRAPEVINE
上述の通り、楽曲の構造を『三角~』の構造の参考にしました。ポップさとそうでない要素の組み合わせ方のモデルとしています。

遠くの君へ / GRAPEVINE
構造が「光について」であれば、精神性はこちらを参考にしています。アンニュイで切実で性的なこの楽曲の肌触りを、『三角~』では再現したいと考えていました。

ムーンライト銀河 / 相対性理論
最終兵器彼女』以外ではもっともセカイ系を感じるのが相対性理論の存在なのですが、その中でも特にセカイ要素を感じるのがこの楽曲です。

愛妻家の朝食 / 椎名林檎
前述の、初めて『最終兵器彼女』を読んだバスの中で、同じように部員内で回して聴いていたのが椎名林檎さんのシングル『真夜中は純潔』でした。その中でも僕はカップリングのこの楽曲が非常に好きで、繰り返し聞きながら『最終兵器彼女』を読んだため、当時の感覚の密接に結びついています。あの頃の気持ちを思い起こしたいときは、この楽曲を聴くようにしていました。

君の街まで / ASIAN KUNG-FU GENERATION
実は自分はあまりASIAN KUNG-FU GENERATIONを聴かないのですが、『日和~』の主人公である頃橋がいわゆるロキノン系バンドを好き、という設定があり、頃橋の内面を描くときにチューニングを合わせるため、この辺りの楽曲を意識的に聴くようにしていました。

音楽以外では、

悪の華 / ボードレール
『三角~』のテーマのひとつに「アンニュイ」があるのですが、そのオリジナルのひとつとして一時期繰り返し読みました。

ガラスの街 / ポール・オースター
自己の存在について、詩的かつ都会的かつ音楽的な筆致で思考する様は、まさに『三角~』の目指す空気感の一つの理想型でした。上述のニュー・オーダーとも似た匂いがするように感じます。

ストロボライト / 青山景
岬の思う恋愛ものストーリーのひとつの理想型です。ポップさとそうじゃない要素の組み合わせ方も素晴らしい。

かか / 宇佐美りん
最近デビューの作家の中で、もっとも衝撃を受けたのが宇佐美りんさんでした。それこそここ十年では一番かもしれません。特にこの「かか」の持つ強度に似た強さを、自作のヒロインに、特に『三角~』の秋玻/春珂に宿らせたいと思います。

 

――音楽的な構造を小説に落とし込んでいる、というお話を受けてお聞きしたいのですが、「セカイ系」を紡ぐ上での小説というメディアの強み、あるいは小説というメディアで「セカイ系」を紡ぐことの難しさはどういったところでしょうか。

 まずは強みに関して。「セカイ系」に対してのみならずではありますが、やはり「自意識」を文章の形で描けることが小説媒体の強みであるように思います。『最終兵器彼女』もそうですし、たとえば羽海野チカさんの作品もそうですが、漫画においてキャラクターの内面を文字として配置するのには、優れた作家であってもかなりの工夫を要するものであるように思います。また、そのボリュームも必然的に絞ったものになりがちです。もちろん、小説においても表現に力量や工夫、技術は必要なのですが、人の内面を景色に反映する傾向のある「セカイ系」を描く際には、小説という媒体はそのあたりに強みを持つように思います。

 逆に弱みは、その意識の反映された景色を「景色」として見せられないこと。ビジュアルとして、見せきることができないところでしょうか。『日和~』は(イラスト担当の)堀泉インコさんのお陰で完璧なイラスト化をしていただいており、僕自身十分以上の満足と感謝をしているのですが、全ての場面をイラスト化できるわけではありません。そこはやはり、現実的な弱みとしてあるように思います。

 

――ちなみに、同世代、あるいはご自身より下の世代で、「セカイ系」的な感性を持ち、それを作品に落とし込もうとしていると感じる(つまり、シンパシーを感じる)ライトノベル作家・小説家の方はいらっしゃいますか。

 それがいないんですよ。いや、いるのかもしれないんですが、今のところ見つけられていない。他の部分でシンパシーを感じる作家はいるのですが、セカイ系的感性を自作に落とし込む、という人を見たことがないんです。実はこれが、最大の問題かもしれません。

 

――いろいろと貴重なお話をお伺いでき、とても嬉しかったです。最後に、今後のご予定や目標を教えてください。

 今回、このようにインタビューいただけたことが非常に光栄でした。

 ゼロ年代の頃憧れた批評、評論に「セカイ系」を通じて関わらせていただけるなんて……ちょっと夢みたいな気分です。

 今後も、もちろん軸足はライトノベル作家としつつではありますが、より自分のポテンシャルを生かす形で活動の範囲を広げていくことができればと思っています。

 僕個人の目標は、20年前から変わらず『最終兵器彼女』のヒロイン「ちせ」と会うことです。自分で正面からセカイ系作品を書けば少しでも彼女に近づけるかと思ったのですが、まったくそんなことはなかった。次はどうやってあの子のいる場所へ向かうか、改めて考えている最中です。

(2021年8月、メールインタビューを再構成)

 

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